槙野智章
まきのともあき
来歴
兄2人(内1人は実業団のサッカー選手)の影響で小学1年生からサッカーを始めたが地元のサッカー少年団は4年生からしか入団できなかったため、隣町の小学校のサッカークラブに入団。
2000年にサンフレッチェ広島ジュニアユースに入団。同期には森重真人などがいる。
当初はFWだったが、トップ下、サイド、ボランチなど様々なポジションを経て、中学3年次にコーチによりセンターバックにコンバートされた。
2003年にユースチームに昇格。ユース時代からの同期には柏木陽介らがいる。2年次からセンターバックとしてレギュラーを獲得し、ユースレベルでの3大大会の全てで決勝に進出し2冠達成に貢献した。
2006年に柏木、橋内優也、趙佑鎮と共にサンフレッチェ広島のトップチームに昇格。
同年11月に開催されたAFCユース選手権2006および翌2007年7月に開催された2007 FIFA U-20ワールドカップでは福元洋平とセンターバックでコンビを組み、守備の要として、またムードメーカーとしても活躍した。
2007年8月に選手が二人も負傷したため先発メンバーに抜擢され、以降レギュラーとして定着した。
2009年は初めてJ1で一年間レギュラーとして出場し続け、DFではリーグ最多の8得点を挙げた。5月にはキリンカップおよび2010 FIFAワールドカップ・アジア予選に臨むサッカー日本代表合宿に初招集されたものの出場はなかった。
2010年1月、既に予選突破を決め、若手が起用されたアジアカップ最終予選のイエメン戦で代表初出場を果たし、ゲームキャプテンも務めた。5月に発表されたFIFAワールドカップ・南アフリカ大会本大会の日本代表メンバーからは落選したが、予備登録選手に選出された。
この年はリーグ全34試合に出場、うち33試合ではフル出場し、初のJリーグベストイレブンに選出。また、全試合に出場しながら警告・退場が1枚もなく、フェアプレー個人賞を受賞。
2010年12月、ドイツへ渡り、ボルシア・ドルトムントとホッフェンハイムの練習に参加。この時は契約に至らなかったが、2010年12月30日、当時ケルンのスポーツディレクターを務めていたフォルカー・フィンケの誘いでドイツ・ブンデスリーガの1.FCケルンへ完全移籍加入することで合意したと発表された。
2011年1月29日、FCザンクトパウリ戦でブンデスリーガデビュー。チームは敗れたがフル出場した。しかし、その後は出場機会に恵まれず、移籍1年目の出場は5試合にとどまった。
2012年1月11日、出場機会を求め、広島時代の恩師であるミハイロ・ペトロヴィッチが監督に就任した浦和レッズへの1年間の期限付き移籍が決定。(12月、2013年シーズンより浦和への完全移籍加入)当初はサンフレッチェへの復帰を望み、新監督の森保一監督も復帰してほしい気持ちはあったが、チーム編成と移籍金の都合によって実現しなかった。
2012年2月24日のキリンチャレンジカップ・アイスランド戦で代表初得点を挙げた。
2017年3月、J1第4節のガンバ大阪戦でJ1通算150試合を達成した。
同年11月、国際親善試合のブラジル戦で得点を決めた。なお、日本代表がブラジル代表相手に得点したのは、2006年ドイツW杯で決めた玉田圭司から11年ぶりであり、DFで得点した初めての選手となった。
2018年、ロシアW杯日本代表に選出。
2016年6月に共通の知人を交えた食事会にて知り合った女優の高梨臨と、約1年8か月の交際期間を経て2017年12月17日にプロポーズし、2018年2月に婚姻届を提出し結婚予定。
(サッカー日本代表と戦隊ヒロインの結婚は選手引退後の中田浩二と長澤奈央の例がある。)
2021年の天皇杯決勝では劇的決勝弾を決め、レッズのACL出場権獲得、2023年に達成されたACL制覇への道を切り開いた。しかし、当時のリカルド・ロドリゲス監督が若手中心のチーム作りを進めた流れでレッズを退団。ヴィッセル神戸へ移籍。レッズ時代ほど試合には絡むことができず、2022年を以って現役引退。移籍後初の古巣戦のATで決めたイニエスタのアシストからの恩返しヘディングシュートがヴィッセル時代唯一にして現役ラストゴールとなった。その後はホームゲームのゲスト出演やクラブのYouTube企画など、各種イベントへの出演を通じてヴィッセルの魅力を発信するエバンジェリストに就任し、他業界での友人の多さと持ち前のキャラクターを活かしてバラエティ番組でも活躍中。