概要
1898年3月から12月にかけて、当時のイギリス領東アフリカ(現在のケニア)のツァボ川付近で起きた2頭のライオンによって引き起こされた獣害事件で、被害者数は、労働者や周辺の原住民を合わせて28人前後という説と、事件の当事者であるジョン・ヘンリー・パターソンの言うところの135人説が存在していたが、米カリフォルニア大の学者が分析して、片方が11人、もう片方が24人と推定している。いずれもとんでもない大惨事であることに変わりはない。
加害ライオンの特徴と事件の背景
加害ライオンは二頭とも若い雄で、片方は全長2.9メートル・体高1.15メートル、もう片方は全長2.85メートル・体高1.19メートルに達した。遺伝的類似点や2頭で行動していた点から同腹の兄弟だった可能性が高く、群れから巣立ったばかりの俗に言う「放浪雄」だったと見られている。
最大の特徴は、2頭とも雄でありながら鬣が全く発達していなかった点である。雄ライオンの特徴と言えば立派な鬣だが、気温が高い地域に棲息する個体群は体温調節のため鬣が発達しないことが多々あり、ツァボではこのような雄ライオンは今でも珍しくない。
事件が発生した理由として、当時のツァボ川とその近辺でアフリカスイギュウやアンテロープ類が、家畜の牛由来の伝染病の影響で激減し、極端な餌不足に苛まれていた可能性が挙げられている。加えて、当時は病気や事故で亡くなった労働者の遺体を埋葬せず岩場に遺棄していた為、そこで人間の味を覚えた可能性も示唆されている。
おまけに現地人や労働者に武器を持たせない当時の植民地政策もあり、加害ライオンたちは人間の味とその狩りやすさを覚えてしまい、積極的に人間を狙い襲ってきたのではないかと推測されている。
事件経過
背景
事件について語る前に、当時のアフリカの環境について説明しておかなければならない。
当時のアフリカは文字通り野生の王国ともいうべき動物たちの世界であり、人の手が入る場所はなかった。
この時にアフリカを植民地としていたイギリスは、開拓のためにウガンダ鉄道建設に着手し、監督官としてジョン・ヘンリー・パターソンを派遣。従事する労働者の多くは、イギリス領インドから来たインド人のクーリー(黒人奴隷に変わるインド人や中国人を中心としたアジア系単純労働者)であった。
彼らは3年契約の季節労働者として採用されて、その数は約3万2000人にのぼった。
工事は順調に進んだかと思われていたが、ツァボ川に鉄橋をかける作業中、ついに事件が起こる。
作業員が一人、また一人と失踪したのだ…
ライオン、襲来
監督官のパターソンは凶暴なライオンの話は聞いていたが、ほかの作業員が強盗目的に失踪した作業員を殺したのではないかと考え、あまり信じていなかった。
しかしある夜、作業員が寝泊まりしているテントにライオンが襲来。作業員一名をテントから引きずり出して逃走していった。
翌朝、調査に当たったパターソンは酷く損壊した作業員の遺体を発見。二頭のライオンによる奪い合いを確信し、足跡をたどっていったが、足跡は川沿いの岩場で消えていた。
その夜、再度の襲来に備え襲撃のあったテント近くの木の上で待機していたパターソンだったが、ライオンはパターソンの裏をかき、800mほど離れた別のテントを襲撃したのだった。
テントがある各キャンプ地は点在しており、毎夜異なったキャンプ地を襲うライオンの先回りをするのは非常に困難だった。
対策として「ボマ」というイバラの垣根をキャンプ地に張り巡らしたものの、ライオンはボマの薄い部分を突き破ったり飛び越えたりしてまんまと侵入し、その度に作業員がライオンに襲われるのだった。
ライオンとの戦い
作業員のキャンプ地の他に病院キャンプも存在していたが、襲撃を受けて別の場所へ病院キャンプを移転。
移転前の病院キャンプ地にテントとおびき寄せるための家畜を係留し、近くには有蓋貨車を1両設置。
パターソンと医療担当のブロック博士が内部で寝ずの番を行った。
近くで枝の折れる音がしたものの、パターソンは確信を持てなかった。だがこの時、ボマの隙間から忍びこんだライオンの内の1頭がパターソンとブロック博士を狙っていた。
パターソンは足音を忍ばせながら近づく影を目にし、暗闇に向かって銃を構えたところ、2頭のライオンがパターソンめがけてとびかかって来た。
すぐさまパターソンとブロック博士は銃を発砲。閃光と銃声に驚いたライオンたちは逃げていったと思われた。
翌朝、ライオンの足跡のすぐそばにブロック博士が撃った銃弾が発見されたが、パターソンの撃った銃弾はどこにも見当たらなかった。後になってからパターソンの撃った銃弾がライオンの一匹の片方の牙を折っていたことが判明している。
二度目の襲撃
最初の対決後、パターソンは罠を仕掛けたりしたものの空振りに終わった。
しかしライオンたちはツァボから狩りの場を少し変えただけで、そこ以外のキャンプ場では引き続き襲撃が続いていた。
だがある夜、ついに新たな悲劇が起こる。
再度ライオンに襲撃を受けた夜は、しばらく襲撃を受けずに安心しきっていた大勢の労働者が、涼を求めてテント外で就寝していた。
その時1頭のライオンがボマを越えて進入し、作業員一名が捕獲されてしまった。
そして、ボマの外でもう1頭と合流し、テントから30メートルも離れていない地点で作業員を食い始めたのだった
反撃で数発発砲したものの、ライオンは作業員を完全に喰い終わるまではその場を離れようとしなかった。
その後も毎晩の様に待ち伏せをしていたパターソンを嘲り笑うかのようにライオンたちは裏をかいてキャンプを襲い、何人もの作業員の命が奪われた
また、徐々に行動も大胆になっていき、それまでは1頭のみが作業員たちを襲って、もう1頭は外の藪の中で待機していたのが、今度は2頭一緒にボマの中に入っては作業員を1人ずつ襲う様になった。
連続する惨劇で作業員たちは恐慌状態に陥り「自分たちはライオンに食われに来たわけではない」と逃げるように帰国する者も増えて、鉄道工事はストップした。
12月、現地の警察長官であるファーカー長官が20名のインド兵を引き連れて現地を訪問。インド兵は適当な木の上に配置され、パターソンが以前作っていた罠も利用し、囮として2名のインド兵が罠の中に入った。
夜には罠の扉が落ちた音が聞こえたが、罠の中のインド兵はライオンの剣幕におびえてしまい、近くにいたインド兵も満足な狙いを付けることが適わず、外れた弾丸が当たって扉の蝶番も壊れてしまい、ライオンにあっさりと逃げられてしまう。
翌朝確認したところ、罠にはライオンの血が少量残されているだけで、これだけ用意周到であっても、かすり傷程度の負傷しか与える事が出来なかった。
1頭目の死
ファーカー長官とインド兵たちは期限を迎えて帰ってしまい、残されたのはパターソンしかいない状況となっていた。
ある日、川のそばのキャンプ場からライオンが作業員を連れ去ろうとしたものの、失敗し代わりにロバを襲ったという知らせが入った。
直ちにパターソンが現場に急行すると、目視出来る距離に達した時、ライオンに気付かれ近くの密林に逃げ込まれてしまった。
その場にいた作業員に協力してもらい、大きな音を立てながら密林を包囲する様に追い詰めると、ライオンは獣道まで出てきたのだった。
パターソンは連発銃で狙い撃つも、1発目は不発で失敗、ライオンは別の密林に逃げ込もうとした時に、2発目がライオンに当たるも、そのまま逃げられてしまった。
連れ去られたロバは僅かに食べられただけで、またライオンが来ることを確信したパターソンは、ロバの近くに3.5mほどの足場を組み立て、そこでライオンを待つこととした。
その夜、パターソンの読み通りライオンはロバを食べに現れた。ライオンもまたパターソンの存在に気づき、足場の周囲を狙いを定めるようにゆっくりと徘徊しながら近付いてきた。
パターソンはライオンの姿が見えない中で狙いを定めて発砲、咆吼とのたうち回る音をあげながら逃げていく方向に向けて再度発砲。ライオンは断末魔の悲鳴と共に絶命した。
夜が明けてから調査すると、銃弾は1発が左肩後ろから心臓を貫通しており、もう1発は右後ろ脚に当たっていた。また以前パターソンの銃弾で牙が折れた個体であることも発覚した。
そのあまりの大きさから、ライオンの亡骸の輸送は8名の作業員の力を必要とした。
人食いライオンが死んだという知らせは瞬く間に国中に知れ渡り、ライオンを一目見ようと多くの人々がツァボを訪れた。
2頭目の死
1頭目の死後、残された2頭目は鉄道監督官を狙った。
鉄道監督官の小屋のベランダを徘徊していたライオンは、鉄道監督官を襲うのに失敗そ代わりにヤギ2頭を襲い捕食していた。
翌日、監督官の小屋近くにある別の小屋で見張っていたパターソンは、囮として3頭のヤギを小屋の外の鉄製のレールに繋げた。
目論見通りに再度現れたライオンはヤギに飛び掛かり、他の2頭もろとも110kgもあるレールごと引きずっていった。
暗闇の中でパターソンはライオンのいる方向に向けて数回発砲したが、ヤギのうちの1頭に当たっただけに終わった。
翌朝、数名の作業員と共にレールの引きずり後を追跡したパターソンは、ライオンがヤギを食っている現場を目撃。近づいたところを気付かれ、逃げられてしまった。
前回のロバの時のように、またヤギを食べに来ると考えたパターソンは、丈夫な足場を作ってそこで見張ることとなった。
目論み通りやって来たライオンにパターソンは発砲し、命中はしたが逃げられてしまった。
翌朝跡を追うと、血溜まりも多く何度も休んだ痕跡が見受けられたので、重傷を与える事には成功したものの、途中から岩場となっていた為見失ってしまった。この岩場近辺に巣があったものと思われる。
それからしばらくは襲撃は収まったものの、パターソンは警戒を怠ることはなかった。
12月27日、作業員の悲鳴で目を覚ましたパターソンは作業員がライオンに襲われているところを目撃し、威嚇射撃を慣行。すぐにライオンは逃げていき、犠牲者は出なかった。
翌28日、前日作業員が襲われた近くの木の上で睡眠をとっていたパターソンは、異様な気配を感じ取り目を覚ました。その夜は月が綺麗な夜であり、忍び寄ってくるライオンの影ははっきりと見えた。
距離を縮めてきたライオンにパターソンは発砲し、数発命中させたがライオンは逃走していった。
夜が明けてから捜索隊を結成し、林の中に入って来たパターソンは近くの藪の中からライオンが威嚇してくる唸り声を聞いた。
直ちに発砲したが、ライオンが襲ってきたためとっさに木の上に登って難を逃れた。
ライオンは藪の中へ逃げようとしたが、そうはさせじとパターソンはすかさず発砲。銃弾は見事に命中し、ライオンはひっくり返った。
木から降りたパターソンが生死を確かめるために近づくと、ライオンはいきなり飛び上がって来たものの、すでに胸と頭に銃撃を受けており、体にも6発以上の銃弾の後がありすぐに倒れ伏せ、死んだ。
かくして、ツァボを恐怖のどん底に陥れた二頭の人食いライオンは、一人の英国人の手によって打ち取られたのだった。
その後、
二頭のライオンを殺したパターソンは、現地の人々から「英雄」と称えられたが、パターソンがそれよりも嬉しかったのは、人食いライオンを恐れてツァボから逃亡した労働者達が一斉に戻ってきて、
鉄道工事が安全に再開されたことだったという。
全ての決着が付いたのはパターソンがアフリカに着任してから9ヶ月もの日々が過ぎていたのであった。
加害ライオンの毛皮は2頭とも、パターソンが家のカーペットとして愛用した後、シカゴのフィールド自然史博物館に売却され、剥製となって現在も展示されている。
ケニア政府は、度々返還を求めているが、アメリカ政府は今のところ応じる気はない模様。