プロフィール
血統
5代母天の川以前の血統が不明となっているいわゆるサラ系血統の馬。
妹ケニイモアは中山大障害を初めて連覇した馬であり、更に孫からは岡田総帥の原点となったグランパズドリームを輩出するなど繁殖牝馬としても功績を収めている。
デビュー
仕上がりは特に遅れる事なく1947年、デビュー。初陣は2着、その次もまた2着と惜敗が続いたものの、3戦目にして初勝利を飾った。その差なんと8馬身。彼女の高い素質の片鱗が見えたレースだった。続く4戦目でも見事勝利を収め、彼女はクラシックである桜花賞を目指す事になった。
だが桜花賞前での前哨戦では4着に敗れ、2番人気に甘んじる。
...だが、彼女は後続を2馬身離す華麗な走りで見事クラシック勝利を収めた。
続く4歳の混合合戦では11着と大敗。しかし東京優駿競走(現在の日本ダービー)ではマツミドリの3着と好走する。因みに、この時2着入線であったトキツカゼはこの年の皐月賞牝馬であり、後にブラウニーが菊花賞に出走したため出なかったオークスで勝利を収め、同じ日に二冠牝馬が誕生するという前代未聞の記録がなされた。
それから4ヶ月休養をとり、混合合戦にして再始動。61kgという重い斤量をものともせず勝利を収め、続く牝馬特別でも勝利した。
そして近づく菊花賞。一度大敗を喫しているものの、それでも善戦し、クリフジ以来の菊花賞牝馬であり、そして二冠に王手を指していた彼女は、堂々の1番人気に支持された。
迎えた本番。彼女は鬼神の如き走りで見事勝利。これにより史上初の桜花賞と菊花賞での二冠牝馬、そして史上2頭目の菊花賞牝馬と二冠牝馬が誕生したのだった。
菊花賞以降の5戦の内3戦は掲示板内に入って健闘していたものの力を出せきれず、12月4日に行われた牡馬牝馬混合合戦で12着を最後に引退した。
生涯戦績は16戦6勝。獲得賞金は約41万870円。
そしてこのままならば順当に繁殖入りをする筈だったが...
年を越した1948年5月20日。腸炎により彼女はこの世を去った。享年4歳。
当時の衛生観念や医療技術の未発達さ等も含めれば、どうしようもなかったとしか言い様がないのである。
それに加え、サラ系と言えども菊花賞牝馬という存在が子孫を残せず亡くなっていったというのは、競馬界においても極めて大きな損失だったとうかがえる。
ブラウニーの亡くなった時期は受胎する時期の少し後である為、もしかしたら一度妊娠し免疫力が弱っている時に合併症を発症しそのまま持ち直せず亡くなってしまった可能性がある。
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ケニイモア...半妹。