概要
(1935年4月8日 - 2006年9月23日)。愛称は「梶」あるいは「梶さん」「梶やん」。
岐阜県立多治見工業高校から1954年に阪急ブレーブスへ入団。阪急以外にも読売ジャイアンツや中日ドラゴンズからも誘いがあったものの、「高いお金をいただいてもしダメだったらこっちが申し訳ない」という母親の意向により、契約金が一番低かった阪急に入団したと言う、変わった入団のいきさつがある。ただし一説によれば、高校時代の先輩がいたから阪急を選んだそうである。
ルーキーでありながらいきなり開幕投手を任されてしまうが、その理由は、「どのピッチャーよりも投げる球が速かったから」。しかも高校時代の先輩にリリーフしてもらったとは言え初勝利を挙げてしまった。しかもこの年いきなり20勝を挙げてしまうが、南海の宅和本司が彼よりも多い26勝を挙げてしまったため最優秀新人賞を逃してしまう。
2年目の1955年も18勝し、1956年には28勝(17敗)にリーグトップの327奪三振を挙げてベストナインに選ばれるが、大映の三浦方義(29勝)に阻まれてわずか1勝差で最多勝を逃した。1957年にも24勝(防御率1.92〔リーグ4位〕)と2年連続20勝、1960年にも21勝を挙げるなどエースとして阪急の「灰色の時代」を支えた。
後に入団する米田哲也とヨネカジコンビを形成し、Bクラスが多かった昭和30年代の阪急を支えた。
1973年限りで現役を引退。通算254勝255敗と、200勝以上を記録した投手の中で唯一負け越している。チームが相当弱かったこともあるが、本人が「10-0で勝つよりは0-1で負けた方がいい。勝ち負けよりも投球内容の方が僕にとっては大事ですから」という信条があった、まあ要するにあまり欲がなかったためこうなってしまった。
引退後は阪急→オリックスで一軍投手コーチ(1974年 - 1978年)、監督(1979年 - 1980年)、一軍ヘッド兼投手コーチ(1981年 - 1985年)、球団調査部長(1986年 - 1988年)、二軍投手コーチ(1989年 - 1991年)、二軍リザーブチーフコーチ(1992年 - 1993年)を歴任。指導者としての評価も高く、コーチ時代には4度のリーグ優勝と3度の日本一に貢献した。
また中日ドラゴンズでも星野仙一監督の下で二軍投手コーチ(1998年 - 1999年)を務めた。
解説者としてもラジオ関西解説者・デイリースポーツ評論家(1994年 - 1997年)、ラジオ関西・J SPORTS解説者・デイリースポーツ評論家(2000年 - 2006年)を務めた。
2006年9月23日午前6時26分、呼吸器不全のため神戸市内の病院で死去。満71歳没。
死後、2007年に野球殿堂入り。
弟の梶本靖郎も岐阜県立多治見高等学校から、1956年に阪急ブレーブス入り。
しかし1軍定着が出来ず、先発から中継ぎ投手へ転向し3勝2敗で1963年に肩の故障で引退。
開業を控えた新阪急ホテルに入社、「憲史」という名前を使用した。
入社当初は宴会部に所属し、ブレーブスが優勝した時に同ホテルで行われた祝賀パーティーを担当。後に常務取締役を務めた。
ちなみに母校・多治見高等学校は2017年の第89回選抜高等学校野球大会における21世紀枠として選出され、甲子園に初出場している。
追記
元々は速球とカーブで勝負していたが、それだけではダメと知ると、パームボールやフォークを交えた技巧派へと転身した。しかも肩や肘を一度も壊すことなく20年間の現役生活を全うしているが、監督に就任した上田利治から「もう若い連中に任せたらどや。コーチやらへんか?」と言われなければ(これが引退の引き金になった)、ナックルボールまで会得したうえでもう少し投げられた可能性はある。
先述の通り欲というものがなく、呑気な人間性であった(かのノムさんをして、「ピッチャーらしからぬ、仏様のような方」と呆れたほど)一方、入団して間もなく先輩から酒を勧められた際にはグラス十数杯の水割りを自分で用意して全て飲み干してしまったこともあった。