概要
世界で最初に開発され、実戦投入された戦車である。
開発経緯
第一次世界大戦中の西部戦線における、塹壕と機関銃の圧倒的優位が確立されていく中でイギリス陸軍のアーネスト・スウィントン中佐は、アメリカのホルト社(現:キャタピラー社)が実用化に成功した無限軌道(キャタピラ)トラクターにヒントを得て、これに装甲を施した戦闘室を搭載した戦闘車輌により塹壕戦を突破することを着想する。この発案は陸軍では却下されてしまうが、海軍が関心を持ち、この時の海軍大臣であったウィンストン・チャーチルの肝入れにより海軍設営長官を長とする陸上戦艦委員会が設立され、1915年3月に設計をウィリアム・トリットン、ウォルター・ゴードン・ウィルソンが担当し、製造はウィリアム・フォスター社が行うこととなり超壕兵器「陸上軍艦」の開発が始まった。
試作車両そして量産
1915年にリトル・ウィリーの試作を経て、1916年にビッグ・ウィリーが公開試験に成功。40輌(すぐに100輌へ増加)の量産化が決定し、『Mark I』との正式名称が与えられた。
初陣
「ソンムの戦い」における第3次攻勢にて初めて戦闘に投入された。三個戦車中隊の計60輌のMk.Ⅰが投入を予定していたが、輸送時のトラブルや移動中の故障から脱落する車輌が相次ぎ、攻撃開始地点にたどり着いたのは32輌のみと、半数にまで減っていた。また、前進を開始するとエンジントラブルや砲弾孔に落ちて破損するなどの問題が発生し、従来の作戦通り歩兵を先導して敵陣地に突撃できたのはわずか9輌だけだった。
だが、有効な対抗兵器を持たない前線のドイツ軍兵士は、鉄条網を超えて進んでくる謎の新兵器にパニックに陥った。この日の戦いで、イギリス軍は目標としていたフレール一帯の丘陵地帯の占領に成功する。
それでも、長大な戦線からすれば、投入した車輌の数の少なさから効果は一部に留まってしまい、何より戦車の信頼性の低さが問題となった。だが、戦車という兵器が与えた衝撃は大きくドイツでは一時停滞していた戦車開発が急ピッチで進められA7Vが投入され。また、ロシアではツァーリータンクといった独自路線の戦車の開発など各国で多種多様に進められた。
戦車開発
第一次世界大戦後から第二次世界大戦開始までの戦間期にも戦車の研究・開発は続けられ、第二次世界大戦においては、戦車は歩兵の支援車両から戦場の花形となっていった。そして、現代でも戦車の研究・開発は続けられている。
Mk.Ⅰは戦場の有様を変えた、大きな布石となった戦車である。