概要
1827年(文政10年)生まれ。幼名は玄太。後に神官の家に婿養子に出され下村嗣司と名乗った。水戸出身で尊皇攘夷思想を持ち、天狗党と呼ばれる水戸藩の尊皇攘夷派の集団に属していた。しかし、水戸藩で天狗党を名乗った恐喝事件が横行したため天狗党は政権の座から転落し、反尊皇攘夷派勢力が藩の実験を握ったため、芹沢も一時は捕縛され処刑を待つ身となってしまった。だが、天狗党が復権すると大赦令により出獄することができた。この出獄の際、名前を芹沢鴨と改めたとされる。
出獄後、1863年(文久3年)に芹沢は江戸に向かい、上洛に際し将軍の警護を目的(本当の目的は尊皇攘夷運動の先駆けとなる事)として清河八郎が設立した浪士組に参加した。ここで、後に共に新撰組を立ち上げる近藤勇や土方歳三らと出会う。浪士組は京都到着後、朝廷の直属組織となり、尊皇攘夷を決行するため江戸に戻ろうとするが、芹沢や近藤などはこれに反対して京都に残る事を選択して浪士組を脱退した。
脱退後、芹沢は近藤らと会津藩に嘆願書を出し、会津藩預かりとなって壬生浪士組を結成した。これが後に新撰組となる。この壬生浪士組で、芹沢は近藤や新見錦と共に局長を務め、後には筆頭局長として組をまとめる立場となった。
壬生浪士組は八月十八日の政変を機に会津藩から新撰組という名を与えられ、芹沢は引き続き局長職を続投した。しかし、芹沢は壬生浪士組時代から力士との乱闘騒ぎなど暴力行為に関する問題が絶えず徐々に立場が危うくなっていた。その結果、浪士組参加から1年も経たない1863年(文久3年)9月、芹沢は度重なる暴力行為からとうとう朝廷から逮捕命令が出てしまい、これを受けた会津藩を経由して新撰組隊士の近藤、土方、山南敬助らに芹沢に対する処罰を行うよう密命が出された。そして密命から数日後、芹沢は宴会後に泥酔していたところを新撰組隊士数名に襲われ、部下1名及び妾1名と共に暗殺された。事件後、暗殺事件は長州藩によるものとして処理された。
関連項目
佐藤浩市:大河ドラマで芹沢鴨を演じた。
薄桜鬼:新撰組が題材のテレビゲーム及びアニメ作品。pixiv内ではこの作品の芹沢の作品が多い。