プロフィール
生誕 | 1907年12月13日ー1995年1月11日 |
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出身地 | ドイツ国シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 |
軍歴 | 1930年 - 1945年 |
所属 | 武装親衛隊 |
最終階級 | 親衛隊少将及び武装親衛隊少将 |
人物
如何なる戦局に於いても沈着かつ冷静に情勢を判断力の高さは武装親衛隊、ドイツ国防軍の指揮官のみならず同盟国軍の将校達からも、その指揮能力は一目置かれるものがあり部下達からも頼りにされて“Teddy”という愛称もつけられていた。
経歴
ヴェッセルブレナーコークの農家の出身。1930年に親衛隊に入隊。ポーランド侵攻の際には親衛隊大尉となり、歩兵連隊LSSAHに配属された。1940年1月30日に親衛隊少佐となり、LSSAHに属する第2大隊長となり、西方戦やバルカン戦線を戦って1941年6月から始まった独ソ戦に転じた。
1941年7月11日のウクライナ方面においてジトミル攻勢の際、西翼攻撃での戦功で騎士鉄十字章を授与された。
1942年秋、装甲擲弾兵師団へ改変されていたLSSAHの第2装甲擲弾兵連隊長となりゼップ・ディートリヒの元で活躍すると1943年1月30日に親衛隊大佐に昇進した。
第三次ハリコフ攻防戦では勇戦が認められてドイツ十字章金章を受章した。1943年4月7日に第1SS装甲軍団長へと栄転となったゼップ・ディートリヒの後任としてLSSAH師団長として就任し、7月1日には親衛隊上級大佐に昇進した
1944年2月にコルスン包囲戦にてシュテンマーマン集団の56,000名がコルスンでソ連軍に包囲された(コルスン包囲戦)。装甲師団へと改編されていたLSSAH師団はソ連軍に包囲された救出に投入されたがこの際ヒトラーが作戦に介入し、ソ連軍の2個方面軍を逆包囲しろと言う無謀とも言える命令を受ける。
ヴィッシュはこのヒトラーの命令を無視して当初の作戦目的である包囲された味方の救出を試みる。ソ連軍の4個戦車軍団の攻撃に第1SS装甲師団の損害も大きかったが、2月末までに包囲を破ってグニロイ・ティキッチ川に到達、そこに小さな橋頭堡の構築に成功してシュテンマーマン集団は橋頭堡を経由して脱出に成功する。ヴィッシュはこの時の功績で武装親衛隊少将に昇進するとともに騎士鉄十字章柏葉章を受章。
しかし3月になり態勢を整えたソ連軍の春期攻勢を前に食い止められず兵員は1250名以下になった上に師団どころか第1装甲軍自体がカメネツ・ポドルスキー付近でソ連軍に包囲されてしまう。ソ連軍の総攻撃が始まる直前に包囲網を脱出するも、その消耗は甚だしく第1SS装甲師団は休養および再編の為ベルギーに送られ4月25日には完全兵力に復帰した。
1944年6月6日に開始されたノルマンディー上陸作戦開始時、ヒトラーはノルマンディーへの上陸は陽動作戦とみなしていたため、他の装甲師団が次々とノルマンディーに投入されるなか精鋭の第1SS装甲師団は6月下旬までベルギーにて待機が続いた。
ノルマンディー上陸が陽動ではないと判断された下旬に第1SS装甲師団にもようやく出撃命令が出たが、制空権は完全に連合軍側にあったため、鉄道での移送は困難を極め、多くの部隊は自走による移動を余儀なくされ連合軍の空襲による被害も少なくなかった。
師団の先鋒は6月27~28日の夜間に到着し、本隊到着は更に1週間後の事となり、この時点で既に連合軍は海岸を制圧して半島唯一の港であるシェルブールを確保する為に猛烈な攻撃を行っていた。
師団はカルピケ飛行場防衛などの戦闘を行い7月14~15日夜間にイフスとサントーの間のカーン・ファレーズへの街道に撤退していた。
18日、イギリス軍の一大攻勢グッドウッド作戦が05時45分から開始され3時間におよぶ爆撃・砲撃の末に攻勢が始まった。ヴィッシュの第1SS装甲師団にも反撃命令が下され12時には交戦を開始し、第21装甲師団と共にイギリス軍機甲師団へ反撃して126輌の戦車を撃破してイギリス軍を食い止めた。
しかし19日、イギリス軍は直ぐに態勢を立て直した後に再度増援を送り込み攻撃を開始。
制空権を掌握していた連合軍は航空支援を受けたファイアフライ、クロムウェル戦車部隊はドイツ軍前衛部隊を次々と撃破。
しかし、イギリス軍はブルギバス近くの112高地に近づくと、第1SS装甲師団のパンター戦車部隊による攻撃を受けて甚大な被害を受ける。その後も第12SS装甲師団が到着するまで戦線を維持した後に交代した。
第1SS装甲師団の奮戦もあり1944年7月中旬からのカーン~ファーレーズ間を巡るイギリス軍の戦線での攻防戦は激烈を極めるも膠着していたが、ドイツ軍が手薄なアメリカ軍の戦線ではコブラ作戦を発動させたアメリカ軍が戦線突破に成功し、これにより連合国軍による包囲網は着実に狭まりつつあった。
ドイツ軍は制空権を連合軍に握られており日中の移動は空襲で妨害され補給も途切れがちであり、あっという間に弱体化し、攻勢はおろか戦線を維持することもできなかった。西方総軍・B軍集団司令官であるギュンター・フォン・クルーゲ元帥は再編の為にセーヌ川までの撤退を本国に打診したがヒトラーは撤退を許さず、逆に連合軍への攻撃を命じた。
こうしてモルタンのアメリカ第30歩兵師団の戦線を突破して海岸線を目指すリュティヒ作戦が発動され、命令を受けたヴィッシュの第1SS装甲師団は8月7日に4個SS装甲師団と国防軍の3個装甲師団と連携して連合軍へ攻撃を敢行。その日の天候が悪く連合軍は航空支援を受けられなかった為に初めの内は攻撃は順調に進み第2SS装甲師団はモルタンを再占領し、パイパー戦闘団も連合軍の補給物資の集まっていたボーロピンに接近したが、天候回復と共に大量の連合軍の航空機がドイツ軍に襲い掛かり攻勢は失敗した。
この戦闘で第1SS装甲師団は多くの熟練兵と装備を失った。
その一方でリュティヒ作戦の為にドイツ軍が手薄となったイギリス軍の戦線ではイギリス軍がトータライズ作戦を敢行するも第12SS装甲師団、第101SS重装甲大隊などにより辛うじて食い止められたが、この折にかって第1SS装甲師団第1SS装甲連隊のティーガー戦車配備の第13中隊に所属して活躍し、今では第101SS重装甲大隊長になっていたミハエル・ヴィットマン武装親衛隊大尉が8月8日に戦死している。
8月13日の時点で第1SS装甲師団保有戦車台数は、わずかにⅣ号戦車14輌、Ⅴ号パンター戦車5輌の計19輌となってしまいこの時点で一個戦闘団にも満たないまでに装備、兵力ともに疲弊していた。
ここでついに第7軍司令官パウル・ハウサー武装親衛隊大将からノルマンディーからの撤退命令を受けて第1SS装甲師団は残っていたSS部隊と国防軍部隊と共にファレーズ包囲網の突破を開始する。
厳しい戦局の中に於いて尚、部下をまとめ上げてグーフェルンの森からサン・ランバール・シェル・ディーヴにかけての連合軍の包囲網を突破して味方の退路を確保したヴィッシュの指揮能力に対する評価は高い。
1944年8月20日、連合軍の二度目の包囲突破目前に連合国軍の艦砲射撃によりヴィッシュは両脚を失う程の重傷を負う。その直後に救援に駆けつけた第2SS装甲師団に助けられた。
ヴィッシュは高級将校で最初に連絡がついた砲兵連隊長のフランツ・シュタイネック武装親衛隊中佐に師団の指揮を託して戦場から離脱した。第1SS装甲師団は師団長のヴィッシュの負傷離脱と戦車や野砲の不足で作戦続行不能と司令部へ報告をした後に第1SS装甲連隊長ヨアヒム・パイパー武装親衛隊中佐ら各指揮官が複数の小戦闘団を率い包囲をくぐり抜けて撤退に成功した。
ヴィッシュに対してはこの時の戦功、戦傷に対して武装親衛隊として第94番目となる柏葉剣章および戦傷章金章が授与されたが軍務を続ける事は困難として第1SS装甲師団長の後任にヴィルヘルム・モーンケ武装親衛隊准将が就任した後は終戦までの間、ベルリンの北40㎞程にあるホーエンリューヘン親衛隊病院に入院したまま終戦を迎えてやって来たイギリス軍に逮捕されフランスにて捕虜生活をおくることとなった。
戦後は連合国がヴィッシュの軍歴を調べた結果、戦争犯罪への関与は無かったとされ1948年に釈放。その後、ドイツ最北端の連邦州であり生まれ故郷のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州…出生地のヴェッセルブレーネルコーフから80㎞程の距離にあるピンネベルクに移住。
自叙伝を書いたりと静かな余生を過ごした後に1995年1月11日に亡くなった。(享年87歳)
その他
戦後、武装親衛隊はユダヤ人虐殺や占領地域での戦争犯罪を起訴されて将校から下士官まで軒並み死刑か実刑判決を受けて1950年代以降も刑務所暮らしだった。
第1SS装甲師団も戦時中は輝かしい戦果があった一方で捕虜の虐殺行為など度々問題を起こして国防軍だけではなく身内の親衛隊将校達からもその残虐性を問題視されていた。
ただし、ヴィッシュ本人はそれら戦争犯罪への関与がなく純粋な軍事作戦のみに就いていたとして武装親衛隊の将校では数少ない無罪判決を受け1948年に釈放されている。