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京極マリアの編集履歴

2012-12-20 12:37:07 バージョン

京極マリア

きょうごくまりあ

京極マリア(天文11年(1542年)頃-元和4年7月1日(1618年8月20日))は、戦国時代の女性。

概要

天文11年(1542年)頃、近江国の大名・浅井氏の当主浅井久政の次女として小谷城で生まれる。

京極高吉に嫁ぎ、子は永禄6年(1563年)に小谷城で高次、元亀3年(1572年)に高知、時期は定かでないが竜子、他に2人の娘(氏家行広室、朽木宣綱室・マグダレナ)を設ける。天正元年(1573年)より前に、夫は嫡男の高次を織田信長に人質として送り上平寺に隠居しており、そこで共に暮らしたと考えられる。

天正9年(1581年)、夫・高吉と共に安土城城下でオルガンティノ神父より洗礼を受け、洗礼名としてドンナ・マリアを授かるが、その数日後に高吉は死去する。

天正15年(1587年)にバテレン追放令が豊臣秀吉により発せられた後も信仰を貫き、秀吉の側室となった竜子を除く4人の子が洗礼を受けたとされる。京や大坂での布教活動を経て、関ヶ原の戦いの後には次男の高知が領した丹後国泉源寺村(京都府舞鶴市)に移り住み、高知の庇護の下此御堂という建物を中心に布教活動を行い、更なる信仰を深めたという。泉源寺村は丹後の最東端に位置し、若狭との国境に近いことから選んだとされ、長男が領する若狭の小浜にもたびたび足を運んだともいわれている。

地元の民には「泉源寺様」と呼び慕われ、元和4年(1618年)7月1日に死去。法名は、養福院殿法山寿慶大禅定尼と伝わる。


(日本語版Wikipediaより)


創作上の扱い

戦国大戦

Ver2.0「1582 -日輪、本能寺より出ずる-」より、長政の姉ということからか浅井朝倉軍(浅井家)の武将として参戦。

二つ名は「慈愛の聖女」。

見出し画像はカードイラストがモデルになっており、台詞周りも『今日が、素晴らしい日になりますように』(開幕時)や、『私の祈りが、届きますように』(計略発動時)など、隅々まで二つ名に相応しい「聖女」らしさを持つ。


スペックはコスト1.5・武力3/統率8の騎馬隊で、特技は「防柵」と「魅力」。

武力面ではコスト比に対して低いが、高い統率と二つの特技を持ち、トータルすれば十分な値。


持ち計略の「聖女の進軍」は、自身を底辺に置いた四角形の回復陣形を展開する。

この効果はSR仕様の弟と同様に、敵陣に居る状態だと回復量が増すため、「気合」を持つ武将がデッキに居ることも珍しくない。


「皆で祈りましょう。明日の平和を…」

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