正木丹波守利英
まさきたんばのかみとしひで
正木丹波守利英(まさきたんばのかみとしひで・正木丹波守勝英と書かれた資料もある)
?~1591年6月2日(2月の説も有)
家紋は「菊に流水」
武州忍城主・成田氏長の家臣
正木氏は安房の国北郡、正木郷から起こった在名。
ただし直接の先祖であるかは今のところ不明。
正木丹波守利英は埼玉県南埼玉郡菖蒲町(現埼玉県久喜市)の栢間、
埼玉県鴻巣市の郷地・笠原を知行していたらしい。
天正2年(1574年)、羽生城(埼玉県羽生市)の戦いで
正木丹波は城主氏長から「抜きんじて走り回り」と称され、
元々の恩給地であった栢間に加え郷地と笠原を与えられたとされる。
豊臣秀吉が天下統一の総仕上げに行った小田原北条攻め。
豊臣軍は本城である小田原城を攻めると同時に、
関東一円に広がる後北条氏方の支城を別働隊が攻め立てる。
北条傘下にあった忍城(埼玉県行田市)も攻撃目標となった。
石田三成らにより天正18年(1590年)6月6日に城を包囲され、
翌日早朝より攻撃を受ける。
忍城戦では忍城の南方にあった佐間口の守将となり、約500人の守備隊と共に戦う。
6月12日には城代である成田長親の許可を得て長束正家の陣に夜襲をかける。
大軍に見せかけるため、かがり火を消してできるだけ近づき、
一斉に大音声(だいおんじょう)をあげて仰天する敵を追いかけまわし長束隊を大混乱に陥れた。
さらに「かねて内応を約束した者よ。今こそ長束の首を討ち取れ!」と叫んだので、
長束隊の兵士たちは疑心暗鬼となりますます混乱に陥ってしまった。
長束正家は追撃され命からがら逃げるはめになった。
7月5日には総攻撃を受け行田口が危機に陥る。
それを知った正木丹波の部隊は急ぎ駆け付け攻城軍の背面を突いたため、
浅野長政(当時は長吉)・長束正家軍は600余人もの死傷者を出して撤退。
その後佐間口へ戻った正木隊は大谷吉継軍を押し返した。
小田原城の開城に伴い、7月7日忍城も開城。
成田氏は蒲生氏郷にお預けの身となり、一部の成田一門や重臣たちがつき従ったが、
正木丹波は妻子だけを会津に向かわせ、自分は当地に留まり敵味方の戦没者の菩提を弔うため
佐間口付近に高源寺を建立。
忍城戦の翌年6月2日に亡くなる(2月に亡くなったという説もある)。
法名は「傑宗道英」
忍城戦のすぐあと城下の寺で追善供養が執り行われた際、
名簿の一番初めに正木丹波の名が書かれていた。
このことから城内でもかなりの有力者であったことがうかがわれる。
高源寺には今も正木丹波の墓、忍城戦戦没者の慰霊碑がある。
毎年5月8日には花まつりの他に、
正木丹波守利英公供養祭・忍城水攻戦没者彼我供養祭が執り行われる。
高源寺が移転のため土地を探して見つけたところ、
そこはどうやら石田三成の陣屋跡(本陣を敷いた丸墓山ではない)だったらしい。
何とも因縁めいた話しである。
一説には高源寺の向かいにある佐間天神社付近に邸宅があったとも、
行田市内の谷郷春日神社付近にあったとも伝えられる。
『のぼうの城』の正木丹波のキャラクターは
作者である和田竜のオリジナルであるが、資料等に書かれた上記の事柄などを
参考に練られたようである。