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ルネサンス

るねさんす

【Renaissance】直訳すると『再生』の意。14~16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命あるいは運動、またはこれらが興った時代のこと。
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RENAISSANCE

『現在』ヨーロッパで思い浮かべる風景・街並・雰囲気がそろった時代

更に現代において一般的な「ヒューマニズム」(博愛主義などの狭い意味ではなく「この世の言わば『主人公』は神ではなく人間」的な考え方)の源流も、この時代にある。要は言わゆる「ナーロッパ」は、登場人物の思考パターンも文化・町並みなども中世より、このルネサンス期に近いと言える。

  1. 14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命あるいは運動を指す。
  2. これらが興った時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある。
  3. 日本では文芸復興と訳されてきたが、(文芸のみでなく広義に使われるため)現在では余り使われない。ルネッサンスとも表記され、通俗的に「復興」「再生」を指す言葉として用いられている場合、例えばコスメティック・ルネッサンス、あるいはカルロス・ゴーン著『ルネッサンス』などは、ルネッサンスと表記されることが多い。
  4. 現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。

なお、ヨーロッパにおいて、いわば「人文主義(≒人間中心主義)」の源流であるルネサンスが起きたのと、ほぼ、同時並行で従来のカトリックよりも厳しい言わば「神様中心主義」(人間の運命は神様があらかじめ決めていて、何なら「神を信仰した者が救われるのではなく、神が救いに予定した者は神を信仰する運命を辿り、神が救いに予定していない者は、その逆」という考えの予定説など)を唱える宗教改革も起きている。


ルネサンス期に活躍した人物

商業・経済

思想

文学

美術

音楽

ルネサンス期の器楽曲・声楽曲は、イタリアよりブルゴーニュ、フランドルが中心であった。

イタリアではルネサンス後期に至ってようやくパレストリーナが登場した。

建築


「ルネサンス」という語

ルネサンス Renaissance という語は「再生」(re- 再び + naissance 誕生)を意味するフランス語で19世紀のフランスの歴史家ミシュレが『フランス史』第7巻(1855年)に‘Renaissance’という標題を付け、初めて学問的に使用した。


続くドイツのブルクハルトによる『イタリア・ルネサンスの文化』Die Kultur der Renaissance in Italien(1860年)によって、決定的に認知されるようになった概念である。


ルネサンスに相当する言葉はすでに16世紀から用いられており、ジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』に現れた rinascita(再生)の語に直接的な起源があると思われるが、「再生」という意識そのものは、はやくもダンテやペトラルカの著作に見られる。


論者によってルネサンスの定義は、しばしば大きく異なる。文化運動を指す場合と時代区分を指す場合でしばしば混乱が生じる。ブルクハルトの時代にはルネサンスは極めて明瞭に区分できると思われていたがその後、特にゲルマン系学者による中世の再評価が行われた結果、ルネサンスを特徴づけると考えられていた事象(古典古代の文化の復興が最たるものである)の多くが中世にも存在していたことが明らかになった(12世紀ルネサンスなど)。したがって、ルネサンスは中世を変革したのではなく、中世の延長線上にあると捉えることもできる。


ルネサンスの時代にも、占星術魔術など、中世的な(あるいは、現代人が中世的と考えている)思考が多く残存していることも明らかにされた。

これらによって中世ルネサンスを明確に峻別することは困難になったのである。

(中には、「ルネサンス」の存在そのものを否定する過激な研究者もいる)


ルネサンスが近代の始まりなのかそれとも中世の範囲になるのかという点についても論議が続いている。歴史区分ではルネサンスのあとに近代が続くが、このふたつの時代には思想的に多くの断絶が存在し、現代の史家もそれを埋めることに苦労している。


14-15世紀にイタリアを中心に大きな文化運動が起こり、各国に影響を及ぼしたこと自体を否定する論者はいない。


一般に古代ギリシャ・ローマの文献の再発見による学問・知識の復興であり、またヨーロッパにおける文化の再生でもあると捉えておく。


イタリア・ルネサンスの時期としてはおおむね14世紀中頃のペスト流行以降、1600年、宇宙の無限性を唱えたブルーノ火刑のあたりまでが想定されるだろう。


ギリシア哲学、イスラム科学との関係

  • 中世=暗黒時代観

ミシュレやブルクハルトが想定した、従来の一般的な見方は次のようなものである。

ローマ帝国の崩壊後、およそ1000年の間のキリスト教カトリック支配のもと、西ヨーロッパ圏では古代ローマ・ギリシャ文化の破壊が行われ、多様性を失うことにより世界に貢献するような文化的展開をすることはできなかった。

ルネサンス期に古代の復興が行われ、その集大成であるプロテスタントが登場したことで、ヨーロッパは再び「理性的」な「文明」を得ることができたのである!


……こうした見方はルネサンス以前の中世を停滞した時代、暗黒時代とみなすものであり、プロテスタント圏や、プロテスタント圏の歴史観を導入した日本での大衆人気は高い。

だが、現在では古典古代の復興はイタリア・ルネサンスより以前にも見られる現象であることが明らかにされている。9世紀フランク王国の「カロリング朝ルネサンス」、西ヨーロッパにおける「12世紀ルネサンス」などがある。


いずれにせよ、十字軍などから、ビザンティン帝国ないしイスラーム圏に継承されていた古代ギリシャ・ローマ文明を知り、さらにこれらの地域との交易で莫大な富を蓄積したイタリア都市国家群によって始まったのがルネサンスである。


ギリシア哲学との関係

ルネサンスは古典古代の再生といわれるが、その文化は多神教文化の精神とは全く異なる精神を持つ人々が作った物であり文字通りに再生した訳ではない。

東方のガンダーラではギリシャ文化の影響により1-3世紀頃、仏像が発生しギリシャ神話の神々も各民族の文化と融合し仁王など様々な形に変化しながら、ギリシャの精神は現在にまで受け継がれている。


イスラム科学との関係

ギリシアをはじめとする古典的な知の遺産は、徐々に人気を無くしてしまい忘れられつつあった。古代ローマ人もギリシア人の空想的な科学にはあまり興味を示さなかったとされる。

一方で初期イスラム勢力は教養に興味を示し、そのほとんどをごく短期間のうちにアラビア語に次々と翻訳し、初期のイスラム文化や科学の発達に多大の貢献をもたらした。


翻訳作業の大半はイスラム圏とヨーロッパ大陸を繋ぐ中継基地としての役割を担っていたイスラム支配下のスペインにおいておこなわれたのだが、この作業には、それぞれ出身地を異にするイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒など、数多くの翻訳者集団が参加した。


そうした知識の継承が一段落ついたかと思う間もなく、新たな翻訳の時代がその幕を明けた。

イスラム世界の学問的成果が次々とラテン語に翻訳されていったことによって、西ヨーロッパの人たちはイスラムが継承、拡充した学問をラテン語で読むことができるようになった。


社会と経済の発達の重要性を痛感していた西洋の社会は初期のイスラム社会と同じように、とりわけ医学をはじめとする科学的な知識を必要としていた。アリストテレスが魂について哲学的考察を加えた『霊魂論』、イブン・スィーナーが著した『医学典範』哲学者であるとともに医師であったアル・ラーズィーが著した『アル・マンスールの書』はいずれも15世紀から16世紀にかけて翻訳された、これらの作品は西洋の学生たちにとって必読書でありそうした事情は500年という途方もないほど長い歳月にわたって変わらなかった。


ルネサンス期のヨーロッパの学者たちは、膨大な百科全書的なギリシアーイスラム文献に取り組み、こうした文献は最終的にはあらゆるヨーロッパの言語に翻訳され、印刷技術の飛躍的な革新によってヨーロッパ全土に普及した。


イスラム文化が衰退の一途をたどりはじめた時代と相前後してギリシャ-イスラムの知の遺産を継承した西洋が、ルネサンスによって旺盛な活力を獲得しイスラム文化にとって代わって世界史の表舞台に登場したことは歴史の皮肉にほかならない。


ところがキリスト教とイスラム教の対立もあり、このことは長い間黙殺され、突然発生的にルネサンスが生じたという歴史観が20世紀前半頃まで強かった。現代日本でも20世紀に教育を受けた人はイスラム黄金時代について存在すら知らない場合が多い。


私たちは中世イスラムの科学に対する包括的で詳細な研究のほとんどが20世紀といういずれかといえば、近年になっておこなわれるようになったという事実を記憶しておかなければならない。


1500年という長大な歴史の営みの中で作り出された何百、いや、おそらく、何千もの文献が世界中の文書館に埋もれているに違いない。


そうした文献を学者たちが研究、翻訳することができれば中世イスラムの科学の業績に関する私たちの知識と量はさらに高まることだろう。


ルネサンス史

ルネサンスは、西欧世界の思考と価値観を揺るがす、文化史・精神史の上での一大事件であった。まず、イタリア・ルネサンスと呼ばれる事象の興り・発展・終焉、次に、イタリア以外での西欧諸国のルネサンスの受容と発展の様相を見る。


イタリア

ルネサンスの中心都市であったフィレンツェ

ルネサンス(イタリア語でリナシメント rinascimento)は北イタリア、フィレンツェなど地中海貿易で繁栄したトスカーナ地方の諸都市を中心に、教会やイスラム世界、東ローマ帝国の保存していた古典文化の影響を受けて14世紀頃にはじまった、というのが一般的な理解である。


その先駆者とされるのは神聖ローマ帝国皇帝のフェデリコ2世(1194 - 1250年)である。

フェデリコ2世はローマ教皇と敵対し十字軍との戦いでギリシャ、ローマ文明の取り入れが失敗に終わる。


その後フィレンツェ出身の詩人ダンテ(1265 - 1321年)が政敵によってフィレンツェを追放され流浪の生活の中で代表作「神曲」を完成させた。古代ローマの詩人・ウェルギリウスが地獄・煉獄巡りの案内人として登場し、主人公が地獄・煉獄から魂の浄化を経て天国へ昇ってゆくという内容であり、ローマの古典文学とキリスト教による救済との調和を図った一大叙事詩である。


続いてペトラルカ(1304年 - 1374年)は古典古代の時代こそ人間性が肯定されていた理想の時代であり、中世(キリスト教公認以降のローマ帝国が衰退した時代)を暗黒時代と考えた。ペトラルカは古代の文献を収集し、ラテン語による詩作、著述を行ったが、このように古典の教養を持ち、人間の生き方について思索する知識人を人文主義者(Umanista ウマニスタ)と呼ぶようになった。


1453年のコンスタンティノープルの陥落(東ローマ帝国滅亡)の前後には東ローマから多数の知識人がイタリアへ亡命してきた。

末期の東ローマ帝国では古代ギリシャ文化の研究が盛んになっており(パレオロゴス朝ルネサンス)、彼等が携えてきた古代ギリシャ・ローマの書物や知識は古代文化の研究を活発化させた。


人文主義者の一人、フィチーノ(1433年 - 1499年)はメディチ家のプラトン・アカデミーの中心人物でプラトンの著作を翻訳した。


イタリアは古代ローマ帝国の文化が栄えた土地で、古代の遺物も多く、彫刻家、建築家らはこれらから多くを学ぶことができた。建築の分野ではブルネレスキがルネサンスの建築家の始めとされる。ブルネレスキは当時困難とされていた、フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)に大ドームをかけるという課題に合理的な解決をもたらし、世の賞賛を浴びた。

中世の職人とは異なる、高い教養と科学的知識を持つ建築家の誕生である。「人間はあらゆるものになる可能性を持っている」と説いた人文主義者アルベルティは建築論と実作、絵画論など多くの分野で業績を挙げており、ルネサンスの理想である「万能の天才」の一典型とされる。


またミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチラファエロはそれぞれ絵画、建築、彫刻など多方面での才能を発揮した。


芸術表現の特徴としては、キリスト教の洗脳による先入観から解放するために、キリスト教が罪と定義する裸、すなわちカナンが奴隷となった原因であるところの「裸を見る」行為を奨励し、裸図や裸像を作った。


ドナテッロやミケランジェロは、ユダヤ王ダビデの像のペニスを割礼のない様相を強調して彫り、ダビデがユダヤ人ではなくパレスチナ人であったことを主張した。さらに、レオナルドダビンチにおいては、絵画『最後の晩餐』で、聖杯の血の意味を暗示して、イエスが救済したのは旧約聖書の律法において死刑にあたる女性とイエスのような子の命であることを表現した。


フィレンツェ・ルネサンスの黄金時代を築いたロレンツォ・デ・メディチ

音楽の分野での「ルネサンス音楽」という用語は、単にルネサンス期に作られた音楽という意味合いが強く、実際に音楽家たちが「復興」を意識するようになったのはルネサンス末期である。


16世紀後半フィレンツェ、ジョヴァンニ・デ・バルディ伯をパトロンとして、カメラータと呼ばれる研究グループが結成され、「古代ギリシア音楽の復興」を目指す試みがなされた。主要なメンバーは、ジュリオ・カッチーニ、リュート奏者ヴィンチェンツォ・ガリレイ(科学者ガリレオ・ガリレイの父)、ピエトロ・ストロッツィである。


彼らは従来のポリフォニー音楽では均整の取れた美しさと引き換えに歌詞が聞き取りづらいことを批判して、より人間の感情を強調できるモノディ様式とよばれる独唱のスタイルを生み出し、その成果はバロック音楽への発展に繋がった。


カメラータの活動に刺激された同時代の作曲家は、リシア悲劇を思想上の範としてオペラを創出し、ヤコポ・ペーリの『ダフネ』(確認できるうちでは最古のオペラ)や、クラウディオ・モンテヴェルディの『ポッペーアの戴冠』といった傑作が生まれた。


イタリアでルネサンス文化が開花したのは、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ヴェネツィアなどの都市である。学芸を愛好し、芸術家たちを育てたパトロンとしてフィレンツェのメディチ家、ミラノのスフォルツァ家などが知られている。


15世紀末にはサヴォナローラの改革によりフィレンツェの芸術は衰退し、フランスとの抗争でミラノのスフォルツァ家も追放された(1515年)が、ローマでは教皇によるサン・ピエトロ大聖堂などの建設が行われ、多くの芸術家を集めることになった。


その他の西欧諸国のルネサンス

一般に、15世紀末から16世紀には程度の差はあるが、ルネサンスの文化はアルプス以北の西欧や一部東欧諸国にも波及したと考えられている(北方ルネサンス)。しかし、ルネサンスを社会形態まで含めた総体的運動として捉えた場合、ルネサンスは本質的にイタリア固有の現象であって、これらとイタリア・ルネサンスは根本的に別物であるとして認めない立場もある。


以下に、一般に「ルネサンス」と評される各国の文化を挙げる。

必ずしも古典の復興を目指したものとは限らないが、イタリア・ルネサンスに触発され発達したもの、明らかに中世文化とは異なる特徴を持つものなどが含まれる。


これらは一時的な流行、単なる模倣に留まらず、各国の国民文化の核にもなっていったものである。


ネーデルラント(オランダ)

1384年から1477年までブルゴーニュ公領であったフランドルでは、毛織物工業と貿易が活発であり、豊かな文化が花開いた。

  • 絵画 - 15世紀のフーベルト、ヤンのファン・エイク兄弟が油絵の技法を完成させ、いち早くルネサンスの到来を告げている。このころのネーデルラント絵画はイタリア・ルネサンスと並び立つ水準にあり、むしろイタリア絵画に大きな影響を与えるほどであったが16世紀頃には逆転しイタリアを手本とするようになった。

ブリューゲル(1525年? - 1569年)もイタリア旅行をした後、独自の農村風景画を描くようになった。初期フランドルの絵画には古典の復興という要素がないため中世末期の美術と見なす説もある。

  • 思想 - 新約聖書をギリシア語から翻訳したエラスムス(1466年 - 1536年)が人文主義者として著名である。古代ギリシア語研究はキリスト教を原点に遡って再検討することにつながり、第に中世カトリックの権威を揺るがすものとなった。エラスムスは『痴愚神礼賛』でカトリックの堕落を風刺したが宗教改革運動を起こしたマルティン・ルターとは袂を分かった。
  • 音楽 - ネーデルラントの顕著な文化活動に、音楽の勃興と隆盛があった。を参照

フランス

16世紀はイタリアの先進文化が伝えられ、国王の文芸保護政策もあって文化活動が活発になり、フランス・ルネサンスの時代といわれる。(ミシュレ『フランス史』)

  • 絵画 - イタリアに侵攻したフランソワ1世の時代(イタリア戦争の項を参照)にレオナルド・ダ・ヴィンチが宮廷に招かれ、イタリアのルネサンス美術が伝えられた。その後もロッソ・フィオレンティーノらがイタリアから宮廷に招かれ、マニエリスムの影響を受けたフォンテーヌブロー派が活躍した。
  • 文学 - ギリシャ古典を研究したラブレー(1483年 - 1553年)は『ガルガンチュワ物語』を著した。荒唐無稽な巨人の物語であるが、既成の権威を風刺した内容で、活版印刷で刊行され、禁書処分を受けるが広く読まれた。このほか、16世紀中頃にはロンサールなど古典文学を学んだ若い詩人ら(プレイヤード派)が文学運動を起こした。またアリストテレスの演劇論などが影響を与えた。これらの動向は、17世紀のフランス古典主義文学(コルネイユ、ラシーヌなど)に継承されていった。
  • 思想 - ユグノー戦争期に生きたモンテーニュ(1533年 - 1592年)はフランスのルネサンス期を代表する思想家といわれ、セネカらの引用と自己の考察を綴った『エセー』(随想録)で知られる。

ドイツ

  • 絵画 -デューラー(1471年 - 1528年)が有名である。イタリア旅行を経て、ルネサンス絵画に学び、思想的にも深みのある表現に達した。銅版画の「メランコリア」や油彩の「四人の使徒」などの宗教画がよく知られている。
  • 思想 - ルターの宗教改革はルネサンスの人文主義者による聖書の原典研究が進んだことが背景にある(前述)。

イングランド

一般にイングランドにおけるルネサンスの最盛期は16世紀のエリザベス朝で、ピューリタン革命(1642年 - 1649年)によって幕を下ろしたとされる。

「イギリス・ルネサンス演劇」を参照

  • 文学 - ジェフリー・チョーサー(1340年 - 1400年)がボッカッチョの影響を受け『カンタベリー物語』を著している。その後、エリザベス朝期には古代ギリシャ以来とも言われるほど演劇が盛んになり、古代ローマの思想家でもあるセネカの書いた『オイディプス』等の悲劇が英語に翻訳され、大きな影響を与えた。イングランドの後期ルネサンスを代表する劇作家シェイクスピア(1564年 - 1616年)の存在もこの流れの中にある。ただし、シェイクスピア自身はラテン語・ギリシャ語についての知識はあまりなく、イタリアを舞台にした劇を書いてはいるが、実際に訪れたことはない。
  • 思想 - 『ユートピア』で知られるトマス・モア(1478年 - 1535年)はイングランドの代表的な人文主義者であり、フィチーノの著作に影響を受け、エラスムスと交友を持つ。また、フランシス・ベーコン(1561年 - 1626年)はセネカの思想の影響を受け、『随想録』を執筆した。

スペイン

  • 絵画 - エル・グレコ(1541年 - 1614年)が知られる。クレタ島出身のギリシャ人でヴェネツィア・ローマを経てトレドに移り住む。マニエリスムの影響を受けながらも、独自の神秘的な画風を築いた。
  • 文学 - 小説家セルバンテス(1547年 - 1616年)は、スペインのエラスムス主義者フワン・ロペス・デ・オーヨスの弟子であり、20代初めにローマで枢機卿に仕え、イタリアの先進文化にふれた。1605年に出版された「ドン・キホーテ」は当時ベストセラーになり、現在では「近代小説の始まり」と評価されている。

俗語で書かれた文芸作品も多く

(「神曲」、「デカメロン」、「カンタベリー物語」、「ガルガンチュワ物語」、シェイクスピアの戯曲、「ドン・キホーテ」など)各国の国語が形成されていった時期に重なっている。


各国の知識人が交流する上で、中世以来の国際語であったラテン語の役割も見逃せない。

例えばネーデルラントのエラスムスとイングランドのトマス・モアはラテン語という共通語があったことで、思想的な交友を持つことができた。


ルネサンスの影と終焉

ルネサンスの時代は明るい時代ではなく、ペストの流行や(マキャヴェッリが『君主論』を著したことで知られるように)政争、戦乱の続く波乱の時代であった。文化を享受していたのも宮廷や教皇庁など一部の人々に過ぎず、下層の農民や職人たちは昔と変わらず苦しい生活を送っていた。


15世紀はルネサンスの大輪の花が開いた時代だが、同時にその精神には明白な陰りが見られた。人々はエリート主義に陥り、富は一部の権力者に集中。市民の活動や自由な発想は阻害され、経済は滞り、芸術家や文人は、権力者におもねるようになっていった。しばしば指摘されるように、こうしたエリート主義がルネサンスの特徴であり、限界でもあった。近代と違って、ルネサンスは一切の産業を生まなかった。エリートたちは古代の伝統にのっとって、下層の労働者を蔑視したからである。


ルネサンスのイタリアは文化の先進国としてヨーロッパに様々な影響を与えたが、国内は教皇領や小国に分裂し、国家統一が遅れ政治・社会の近代化では立ち遅れる結果になった。


やがてイタリアを飛び出したルネサンスは、他国で全く違う果実となって産み落とされる。スペイン・ポルトガルの大航海時代。ドイツの宗教改革。これらは紛れもなく、ルネサンスの私生児であり、忌み子でもあった。

植民地支配によって富を蓄えたスペインはイタリアを支配。ローマ略奪(1527年)によりローマは荒廃し、ヴェネツィア共和国やトスカーナ大公国(フィレンツェ)など一部の地域で、かろうじてルネサンスは生き延びた。


1600年には宇宙の無限性を唱えたジョルダーノ・ブルーノが異端として火刑に処せられた。ブルーノは「近代科学」の殉教者として後世に伝わるが、実際は魔術師にして占星術師という、これ以上ないくらいルネサンス的な人間であった。ブルーノは地動説を唱えながら、宇宙には霊気が満ちていると信じて疑わなかった。

彼の死後、ガリレオが見た宇宙の姿には、もはやルネサンスの影はない。宇宙は空虚であり、惑星は岩の固まりにすぎず、神意でも霊気でもなく、ただの物理事象として運動している。ルネサンスは死んだのである。時代は華々しくもおぞましいバロックと、冷たく非人間的な近代に移り変わる。


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イスラム文化 イスラム科学

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マニエリスム ゴシック ロマネスク


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