西ローマ帝国滅亡(476年)のあたりから東ローマ帝国滅亡(1453年)の前後のヨーロッパ
騎士団というか騎士とかが自分の国家を作ったりした時代である。
あらすじ
AD500中頃の76代ローマ皇帝ユスティニアヌスを最後にローマニアは
地中海およびヨーロッパを『ほぼ掌握していること』がかなり不可能になった。
ローマニア(東方)の『版図』から逃れるために、かつてのローマニアから野蛮人と蔑視
されていたフランク人・ゲルマン人などが国家をたてる(フランク王国)
そしてそのフランク・ゲルマン人の国家が自分たちの国家の目標にしたのが
下記の国は、東のローマニア(東方)と『争いや共闘をくりかえし』
とにかくローマニア(東方)の流れに乗ることを防いだ。
その後フランク王国は
他
に分かれていった。
とにかくローマニア(東方)の流れに乗ることを防いでいる時代は、宗教世界でも(キリスト教)
がやはり小競り合いをしていたのである、
正教会ではローマ元首が『神・キリストの代理人』であるので敬えと言い、
カトリックでは『ローマ教皇』こそがキリストの教えの後継者であるからこちらを敬えというのである。
両者の溝は西ローマ帝国が消滅してから東ローマ帝国との長い付き合いの間に深まっていく。
そして1054年にローマ教皇とコンスタンティノープル総主教の相互破門がおこる(大シスマ)
これにより、東西のキリスト教の交流関係は一旦断絶するにいたり今日に至る。
東ローマ帝国もヨーロッパ諸国も互いに国交が断絶に近い状態ととなったあと、ヨーロッパはヨーロッパ風な習慣・文化に変化していった。
しかし、東方ローマ国家は後に『ビザンツ文明』と呼ばれるほど古代キリスト教時代と末期ローマニアの行政の名残を色濃く残す体制のまま延命したように見える。
よって『キリスト教』は一つだというが、かなり違う雰囲気となる。
東欧・ロシアはその『ビザンツ文明』を色濃く残した『ローマ帝国』の体制を踏襲しているらしい。
ローマ教皇という絶対的権威
ヨーロッパ世界では『逆らうのが難しい存在となる』
その当時のイタリアはローマ教皇がイタリアを統治していた(教皇領)
まさにカトリック天下ではあるが、腐敗もすさまじかった。
それゆえ堕落しきったカトリックを離れ、刷新した教えを唱える者との小競り合いが絶えなくない。
カトリック教会をバックに
『ローマ帝国』を目指す王国(神聖ローマ帝国・フランス王国)などが
『統一王朝国家体制』を築こうとするとヨーロッパの地方を帝国や王国統合
同時期に起きた百年戦争において騎士の時代はおわったとされる。
『東ローマ帝国滅亡』『オスマン帝国』の台頭
ヨーロッパが百年戦争を終結した直後ローマニアがイスラム教のオスマン帝国に滅ぼされる大惨事が発生、その後オスマン帝国はローマ皇帝として地中海に進出しだ。
ヨーロッパは以後500年はイスラムに苦しめられることになる。
ロシア国家誕生
ロシア地方ではその消滅を見計らったかのようにモスクワ大公国がローマ皇帝を名乗りだす。のちのロシア帝国(ロシア)である
イスラムとの戦い
オスマン帝国のイスラム教がヨーロッパの東欧などをにいれるなど
ヨーロッパ人に脅威がさらされる。
このときの苦難がヨーロッパ諸国の体質変換を促し絶対王政に始まる統一国家思考が動きだす。
その間に騎士軍団から常備軍へと転換を促しさらに技術の発達により、銃をつかう騎士=銃士が誕生、絶対王政の常備軍の中核となっていく。
その間にも大航海時代がおこり(15世紀中ごろから17世紀中)
ヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出が可能になった。
中世の創作について
- 中世ヨーロッパの風俗をリアルに描いたものはほとんどなく、日本で「中世ヨーロッパ風」と称される世界は、大抵古代から甚だしくは近代までのヨーロッパのごった煮のイメージで構成されているものがほとんどである。一応ルネサンス以降の近世ごろがベースになっていることが多いが、定義の曖昧さにより作品によってその世界観に差は大きい。