在位:昭和元年12月25日~昭和64年1月7日
生涯
嘉仁親王(後の大正天皇)の第一皇子として体重800匁(約3000g)の元気な長男が降誕。
5月5日に親王の命名式が厳かに行われ、
御名 裕仁親王
御称号 迪宮
と名付けられた。
(尚書の「裕乃似民寧」と「允迪厥徳」に由来し、寛容で徳の篤い天皇となってほしい願いがこめられている)
幼少の頃は学習院に通い、乃木希典の教育を受けた。大正4年に皇太子となり、大正10年には欧州を歴訪し、台湾やサハリンを視察。関東大震災でも現地を視察。摂政を経て大正帝ご崩御を受け即位。新元号は「昭和」と定まった。
大日本帝国憲法の下での帝国軍大元帥をお心がけになったが、世界恐慌に続いて満洲事変が発生。国内では政党政治が衰退し、二・二六事件では怒りを露にし鎮圧をお命じになった。
中・米・英との対立や独・伊との接近を憂慮されたが、事態を打開できず、日本は第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)へ突入することになった。昭和20年に御前会議で終戦の御聖断が下され、終戦を玉音放送をもって国民にお伝えになった。
戦後復興・高度経済成長・冷戦の中、日本再建の詔に五箇条の御誓文を重んじられる旨を入れられ、精力的に各地をご巡幸され、日本国憲法ではそのご地位を象徴と表現され、新たな皇室・天皇像に努められた。
そして、昭和64年1月7日午前6時22分、崩御された。宝算88歳。歴代天皇の中では古代を除き、最も在位が長く最も長寿の多事多難な時代を生きられた天皇となった。大喪の礼の後、東京は多摩の武蔵野陵に埋葬された。
人柄
学者
生物学者として著書・論文がある。学者としては粘菌や貝類、ヒドロ虫を専門とされていたが、日本の植物や海洋生物全般に幅広く精通しておられた。道端に生えている野草一つ一つの名前を大切にされ、「雑草という草はない」という言葉はよく知られている。
和歌山を訪れた際に南方熊楠からご進講を受け、標本をキャラメル箱に入れて献上したが、天皇は南方に好印象を持った。
改革
近代化を慮られた陛下は後宮・側室制度を撤廃し、女官の通勤を承認するなど宮中のシステムを改革されたことでも知られる(大正天皇の御世に確立していたとされているが明文化はされていなかった)。
今でも皇室を代表する宮中行事の一つである御田植も昭和天皇が始められたものである。欧州行啓の際に味わったオートミールやハムエッグなど、その利便性から我々が今も親しんでいる洋朝食の先鞭をつけた、言わば食文化の改革者と言う側面もある。
趣味
プライベートでは蕎麦好き、好角家としても知られた。自らはゴルフを嗜んだ。
短歌も多く詠み、少なくとも1万首は詠まれ、公表されているものは869首。
鉄道に対する造詣も深く、まだ試運転段階だった100系X0編成へ試乗なさったり、新幹線の運転台を見学した時にそれを大変お気に召され、侍従に時間を告げられても離れなかったとか。
終戦後
第二次大戦終結後、米・英・ソ・豪を始め連合側諸国の政治指導部や世論は、天皇を戦争犯罪人にすることを主張。
GHQ最高指揮官に就いたダグラス・マッカーサーもそれを考えた上での対日占領政策を講じていた。
昭和20年9月27日、米国大使館を天皇が訪問し、マッカーサーとの会談が開かれた。
反共の防波堤としての機能が認められ天皇は不起訴となったが帝国軍を侵略の源泉とし帝国軍を解体したことと帝国軍大元帥である昭和天皇の不起訴は大きな矛盾となり一部の軍高官に責任を押し付けるかたちになった。
pixivにて
最長の在位期間を誇るためか、皇室関連のタグの中では現時点で23(2015年7月23日)と数もかなり多い。また、記憶に新しい晩年のお姿だけでなく上記の挿絵のように若き日の軍装や終戦後の行幸姿を描いたものも多く、今も多くの人の心に生き続ける偉人の1人と言える。