経歴
旧姓は林、幼名は利助、のち俊輔と称し(春輔、舜輔)、春畝と号した。
天保12年9月2日生、明治42年10月26日没(満68歳)。
従一位、大勲位菊花章頸飾、公爵。イェール大学名誉博士。
配偶者は伊藤すみ子、伊藤梅子。
初代首相。
解説
長州藩(現山口県)の足軽であった伊藤(林)十蔵の子として生まれ、吉田松陰の松下村塾に学び、木戸孝允にしたがって尊王攘夷運動(皇室を敬い植民地主義を排斥しようとすること)に参加。品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三とともに塙次郎・加藤甲次郎を暗殺するなど、数多くのクーデター事件を起こす。
松陰の教えに忠実であることと尊王攘夷の意思が強いことを理由に武士の身分を認められ、文久3年、藩の命令により井上馨と共にイギリスに留学。
近代都市ロンドンの繁栄を目の当たりにした伊藤は「これからは国という単位でものを考えなくてはならない」と考え、攘夷論を捨てて開国を志すようになったという。
この留学中に関門海峡で長州藩がアメリカ船を砲撃する下関事件が起こったのを知った伊藤は、急いで帰国し、関係国との和平交渉にあたった。
主に外交面で活躍し、明治4年、いわゆる岩倉使節団の一員として欧洲に渡った。
この時に、近代国家の骨格である憲法の必要性を痛感した伊藤は、明治15年、再び渡欧して各国の憲法や政治の実態を調査した。
そして明治18年には、内閣制度を創設して初代内閣総理大臣に就任し、明治政府の最高権力者となる。その後も要職を歴任し、4度組閣。
枢密院議長としても尽力し、明治22年、伊藤らが中心となって起草した大日本帝国憲法の発布を迎えた。
明治24年、来日中のロシアのニコライ皇太子が滋賀県大津市で警官に斬りつけられる事件が起こったが(大津事件)、この時犯人の処分をめぐって、刺客を使って犯人を抹殺すべきだと発言した後藤象二郎逓信大臣に対して、伊藤は「苟も国家主権の存する、豈かくのごとき無法の処置を許さんや」と言い、犯罪者を私的に処分せず、国家として責任ある解決を目指すべきだという立場をとった。
明治27年に朝鮮をめぐって日清戦争が起こるが、清国に勝利した日本は明治28年、伊藤を全権大使として、清国の李鴻章と下関(山口県)の春帆楼にて講和条約交渉を行い、下関条約を結んだ。
伊藤は豊かな国際感覚をもった政治家であったが、明治42年10月26日、日露関係の調整のため訪れた満洲のハルビン駅で、日本による朝鮮半島保護国化に不満をもつ安重根に撃たれて亡くなった。
テロ事件に参加することで低い身分から身を起こし、維新後はテロを否定する法治国家を築き上げて初代首相にまで栄達を遂げた伊藤が、最後はテロで命を落としたのは歴史の皮肉であろうか。
pixivでは若かりし頃のお姿を描いたイラストの方が多い。
人物
よく同じ長州閥の山縣有朋と対比された。この二人は長州閥の中でも際立って低い身分の出自であり、政治姿勢は違っても仲が良かった。
師である松陰からは「あいつは何の取り柄もないが、素直な性格故に短所もないのがいいところである」などと言われていたらしい。
貧しい身分の生まれだったため、明治天皇からお小遣いを貰ったことがあった。
子飼いの政治家を持たず、賄賂を求めたり、受け取りもしなかったことから「金銭面はキレイだった。」と言われる。
私生活では好色で有名であり、モテすぎて掃いて捨てるほど女がいたため箒という仇名までつけられていた。
博文が風邪で自宅で寝込んだ際に訪問した見舞客が布団の中で女に囲まれている姿を目撃している。この時は「寒かったから」と、これが必要な処置であったように主張している。また、馬車の中でも同乗していた芸者相手にコトに及んだ事があり、これが日本初のカーセックスと言われている。
ジャーナリスト宮武外骨には同じく女好きとして有名な松方正義と並んでよくいじられていた。女遊びが過ぎて明治天皇に怒られた上に「恐れながら、皆はこっそりやってるだけであります。博文は堂々とやっているだけ潔いといえます」と抗弁したという。
あまりにソッチ方面に力を入れ過ぎたため、死後は一切の貯財を持たず、汚職した形跡すらなかったというある意味清々しい逸話まで残っている。
一説には女遊びに金を使い過ぎて自宅まで手放す羽目になった為に、首相がホームレスと云うのは如何なモノか、と云う理由で作られたのが首相官邸である、とも言われている。
他にも「十代前半の子供を拉致して愛人にする」というどこかで聞いたような話や、死んだ際に前述の宮武外骨がやっていた滑稽新聞に「銃撃を受けて倒れかけてる伊藤博文の影が漢字の『女』になっている」という風刺画が載るなど、女性関係の酷い逸話には事欠かない。
憲法作成は伊藤をはじめ一部の人間が極秘裏に作成をしていたが、宿で作成中に酒宴で大騒ぎをして、夜に皆が眠った間に泥棒が侵入して憲法草案の入ったカバンを盗まれてしまった。しかし泥棒にはそれの価値がわからなかったらしく、翌朝伊藤たちが塩田に捨てられていた草案を見つけ回収できた。そのためそれからの作成は今まで以上に厳重なものとなった。
よく彼はビスマルクの指導下でプロシア憲法を学んで起草したビスマルク被れという意見があるが、これは大きな間違いであり、実際に憲法制定にあたって深く関わったのはエスラーというドイツ人学者で、彼は大のプロシア嫌いだった。また、英語が堪能だった伊藤はイギリス式の議院内閣制を志向したが、イギリスは議会中心主義で成文憲法が無かったため、モデルにできなかったという。
大日本帝国憲法起草に際し、伊藤は多くの外国人学者の助言を受けるが、日本の国体・文化・伝統に適さないものは断固として拒否し、1882年(明治15年)に憲法調査のためヨーロッパへ渡った彼は、ベルリン大学のハインリッヒ・ルドルフ・へルマン・フリードリヒ・フォン・グナイストと、ウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタインから憲法を学び、「憲法は自国の歴史と文化に根ざした民族精神を体現したものでなくてはならない」と説く彼らに多大な影響を受けた。
また、欧州における国教をめぐる宗教戦争の歴史をよく知っていた伊藤は、シュタインの「国教を制定し、国家と国民の一体化を図るよう」という進言さえ受け入れず、国教の制定化よりも日本の自由で穏やかな多神教的風土に基づく信仰の自由の道を選んだ。
日本による朝鮮支配の象徴と捉えられ安重根に殺されたが、伊藤は基本的に、韓国は併合するのではなく保護国のまま自治させ、状況次第では完全独立も考えるべきだと主張していた。最終的には韓国併合派に押し切られたが、実は韓国完全併合を抑えていた側である。
「俺を撃つとは、馬鹿な奴だ」とは自分を撃った犯人が朝鮮人だと聞かされた伊藤の言葉である。
……が一方で娘婿には「私が知る限り最も立派な人物は遺憾ながら安重根である」と言われてしまっている。