概要
江戸幕府第二代征夷大将軍(在任期間は西暦1605年~西暦1623年)。徳川家康の三男。千姫、徳川家光、徳川忠長、徳川和子(東福門院)、保科正之の父で、徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房の年の離れた兄。
- 生:天正七年四月七日(西暦1579年5月2日)
- 没:寛永九年一月廿四日(西暦1632年3月14日)
家康と側室、西郷局(三河の有力国人の西郷家出身。幕末の会津藩家老、西郷頼母の血縁)の間に生まれる。家康の正室である築山殿との間に生まれた長男、松平信康が築山殿とともに切腹させられ次男の松平秀康は豊臣秀吉の人質として結城家に養子に出され結城秀康となったので後継から外れ、半ばドミノ式に、母が側室とはいえ身分の比較的高かった秀忠が徳川家の嫡子になった。
小田原の役の際に人質として上洛し(開戦時は満年齢で10歳)、豊臣秀吉に偏諱を受けて「秀忠」と名乗ると、織田信雄の娘(小姫)を娶るも信雄が改易されて小姫と離縁し独り身であった事から、同じく夫を亡くした浅井三姉妹の一人である崇源院(お江)と再婚する。秀吉政権下では中納言に任官された。
関ヶ原の戦い(満年齢で21歳)では、徳川家の譜代家臣を率いて、中山道にて信濃方面を制圧してから美濃へ出て、家康が率いる諸大名と合流して石田三成率いる西軍と戦う予定であった。が、真田昌幸が立てこもる信濃上田城の攻略でもたついている間に、早期決戦へと方針転換した家康が美濃へ急行し、天候に阻害されつつ連絡を受けた秀忠軍も急いで美濃へ向かうが、その間に家康軍は小早川秀秋らの離反で崩壊した三成軍を破っていた(九月十五日)。そのせいで、大津にて九月二十日、ようやっと家康に合流できても、当日は「気分がすぐれない」とすげなく面会してもらえなかったという。家康とその側近もこの失態を看過できず、一時は真剣に将軍後継を結城秀康へと変更しようとしたらしいが、何とか廃嫡だけは免れた。
徳川家康が征夷大将軍になった二年後の慶長十年(西暦1605年)、将軍職の世襲化をアピールするために、早々と次の征夷大将軍となる。と同時に家康は江戸を離れ幼少の頃を過ごした駿府城へと移り朝廷、外様大名、外国との折衝を担当し、秀忠は本多正信や大久保忠隣の補佐を受け徳川家内部の統治を担当した。要するに実際の実権は将軍職を辞したにも拘わらず、相変わらず徳川家康が握っていたのである。この時期、秀忠の娘である千姫を、千姫の従兄(浅井三姉妹の関係から秀忠は義理の甥に当たる)にである豊臣秀頼と結婚させているが、その豊臣秀頼と二条城で会見したのも秀忠ではなく家康である点が何より分かり易い(慶長十六年、二条城の会見)。そして家康は自身が存命中に、秀忠の意見は全く聴くことなく秀忠の後継者として徳川家光をサッサと指名している、自身の関ヶ原の戦いでの遅参を謙虚に恥じてかこの決定に対しても全く異を唱えなかったのはこの下克上の時代ではまこと称賛に値する。
方広寺梵鐘事件を始めとして、徳川家康と秀頼(というか寧ろ淀殿)との関係が険悪化してきた事から、豊臣家と関係が深い外様大名と親しい大久保忠隣が家康により改易され、大坂の役が勃発する。夏の陣(満年齢で36歳)の際には大野治房によって本陣を脅かされるが何とか持ち堪え、大阪側の敗北が鮮明になると敗れた義姉と娘婿が自害し、戦乱の世は本格的に終わりを告げた。
家康の没後は、側近の酒井忠世や土井利勝らを率いて幕府の全権を握り、年の離れた弟達を尾張、紀伊、水戸に封じて御三家体制を確立すると、実子である徳川忠長を駿河に配置し、その一方で、弟の松平忠輝や甥(秀康の息子)兼娘婿の松平忠直、本多正信の息子である本多正純、福島正則をはじめとする多数の譜代、外様大名を取り潰して、大名の配置を一変させた(本多正純に関しては秀忠の暗殺を企てたと噂の宇都宮城釣り天井事件も参照の事。これによって衝突の絶えなかった大久保忠隣の孫である大久保忠職が加納城に大名として復帰している)。また、娘の和子を後水尾天皇の中宮に取り立て、皇室の外戚となる事も狙う。
息子である徳川家光に将軍職を譲ってからも家康と同様に実権を握り、外孫である明正天皇の即位を見届けるが、家光との根深い確執があった徳川忠長が蟄居させられ、秀忠はその同年に没する。秀忠の没後、忠長は家光に切腹させられた。
人物
武将としては、高い評価をされていない。同母弟の松平忠吉は高い評価を受けているので、「家康に見劣りする」とかいう理由ではなく、大軍を率いた事しかないので武将として「分かりやすい」「目立つ」戦功を立てる機会がそもそもないのと、初陣の関ヶ原の戦いでまともに戦えなかったせいである。そもそも城攻めの開始から、進軍の連絡が来るまで3日しかなく、この短時間で城を落とせずとも特に戦下手ということにはならない。が、真面目な本人はその事は気にしており、大坂の役では逆に強行軍をし過ぎて家康に叱責されている。指揮の際には前線近くに立つ傾向があったらしく、遺骨からは銃創が複数見つかっているとの事。上記の如く、大坂夏の陣でも大野治房に自らの本陣を突かれた折には槍を取り軍勢に向かっているなどその武勇は賞賛されてしかるべきである。
むしろ、秀忠の本領は政治と内政にあり、関東経営を上手くこなし家康が中央で安心して活動できる下地を作ったり、江戸幕府の基礎を固め、大名の移封と改易を繰り返し、朝廷や寺社にも介入を行った。武家諸法度と禁中並公家諸法度も、家康と秀忠が制定したものである。
総じて冷遇されても腐らず黙々と政務をこなす、当時としては稀少である生真面目な性格が彼を将軍の高みへと昇らせたといっても過言では無かろう。戦争による領土拡大に力を注ぎすぎた武田勝頼、後継者争いで国力を疲弊させた上杉景勝といった2代目たちを見れば秀忠の「優秀さ」が際立つ。関ヶ原の戦いでそつなく上杉景勝の牽制をこなし、他武将からの評価も高かった兄の結城秀康の方が、乱世を生き抜く「戦国武将としての資質は高かったのかもしれない。しかし秀忠は、戦いの無い世において民に必要とされる資質を持っていたことは確かである。
大阪の役にて灰燼と化した大阪城を元の場所に普請したのも秀忠の功績の一つである。さもなければ大阪は北条征伐にて国家機能を横浜や鎌倉へと移転させられた現在の小田原の様な位置付けになっていなくても不思議ではなかったのであるが、とまれ、江戸年間に於いても徳川家への崇敬というものは関八州から出ると低く、故に現代でも秀忠が大阪の恩人である事を知る人間は少ない。もう少し知られて良いものと筆者自身は思う。
仙石秀久と馬があったという点を見ても、有能無能はさておいて好人物であったのはどうも間違いが無さそうである。
創作では
武将としては、高い評価をされていない。
と、同じ書き出しにしてしまうのは、武将の方が政治家よりも見栄えがして人気があるからであり、必然的に秀忠は創作のうえで人気がないからである。現代の冬の陣や夏の陣でも、戦国時代や幕末ばかり目立つのを見れば分かるだろう。
そのため、
・失態のせいで秀康に後継ぎを取られかけた。
・お江の尻に敷かれる恐妻家。
などなど、中傷まがいの扱いを受ける事が多い。そこまでひどい扱いをしていなくても、関ヶ原では主役は家康や三成、大坂では主役は家康や淀殿や真田信繁なので、基本的に単なる脇役でしかない。
その中で、隆慶一郎の書く秀忠は、「一見大人しいが実は残忍卑劣」という、強烈な存在感を放つキャラクター付けをしている。
「信長の野望」などのシミュレーションゲームでは、武将としては強くないが、政治能力は高い、内政や交渉向けの能力になるのが基本。ただし生まれたのが遅いため、登場する前に全国統一される場合が多い。
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曹丕…偉大な初代の後を継いだ2代目で名君な割に評価が低いという共通点があり、肉親に酷薄だった点は半分共通して半分共通しない。