RFラジオ日本
あーるえふらじおにほん
社会の木鐸宣言と経営の悪化
そもそも社会の木鐸とは、社会の人々を指導する人を意味する言葉。
1981年、当時社長を務めていた遠山景久(なんとあの遠山の金さんの末裔らしい)は社名をRFラジオ日本に改名した直後に見出しで述べたいわゆる「社会の木鐸宣言」をし、若者向けの番組を敵視。番組からロック歌手やアイドルを排除し、反共産主義や演歌、ジャズ中心の中高年向けの番組編成に一新。トラック運転手などからは好評を得たものの全体として聴取率は大きく下がった。
聴取率低下により、多くのスポンサーが「ほとんど聞かれてないラジオ局なんかにCMを流すかボケェ!」と言ったかどうか知らないが撤退してしまう。
1987年、遠山景久は社長を退任して会長に就任。しかし社内への影響力は大きく残したままだった。1989年、夜9時以降に残されていた若者向けの番組は消滅した。
1991年、林原めぐみのHeartful Stationなどの声優がメインパーソナリティを務める番組を突如放送しないといった無茶苦茶な事をしでかす。
その結果として、聴取率の低下、売上の激減を招いた。
遠山氏の独裁は続き、アナウンサーをキーパンチャーに転属させて訴訟を起こされたり、管理職の研修を自衛隊で行ったりするなどの普通ではあり得ない事をして労使関係を悪化させ多い時には150人以上いた社員が40名以下となってしまった。
遠山経営の末期には打ち切り番組が21本と異常な状況に陥っていた。ワンマン体制に「もう我慢の限界だ!」となった社員は1993年12月、当時の社長以下取締役会全員一致で「公共の電波を預かる放送局のトップとして不適切」として会長を解任。会社を追放された。
その後遠山氏は自宅を差し押さえられ、遠山一族が保有していたRFラジオの株式を日本テレビが買い取るなどの紆余曲折を経て現在に至る。