概要
明石とは、日本海軍の唯一の新造工作艦である。艦名は兵庫県の景勝地「明石の浦」にちなむ。
米海軍工作艦『メデューサ(AR-1)en』並みの修理能力を持つ特務艦として建造された。
艦歴
1924年に商船改造の工作艦『関東』が沈没して以降、長らく新型工作艦建造が熱望されていたが、財源難からなかなか実現しなかった。ようやく1934年、予算が『マル2計画』で承認され1937年1月に佐世保で起工、1939年7月31日に竣工し連合艦隊所属となった。
工作に専従するという特殊な目的で建造されたため、船体形状も平甲板型(露天甲板が艦首から艦尾まで同一甲板)を採用し、3機の大型クレーンを備えるなどして徹底して作業を実施しやすい構造になっていた。艦内には17の工場があり、内地の海軍工廠にすら配備されていない144台のドイツ製工作機械が設置されていた。
そのため修理能力は非常に優れ、文字通り「移動する海軍工廠」であった。また建造補助能力も高く、戦闘の無いときは内地の工廠を補助し、連合艦隊の年間工数の4割をこなすほどであった。
なお武装は自衛用に、艦首甲板に12.7cm連装高角砲、後部甲板に25mm連装機銃を備えるのみだった。
太平洋戦争の開戦と同時に南方に進出、パラオ諸島、フィリピンのダバオ、スラウェシ島のスターリング湾、モルッカ諸島のアンボンなど南洋の各地を転属し多くの艦を修理に当たった。
1942年8月23日にトラック島に入港してからは、ここを拠点にして損傷艦艇の修理に従事した。その整備・補修能力の高さから、米海軍から『最重要攻撃目標』としてマークされるほどであった。
1944年2月17日、米機動部隊(第38任務部隊)のトラック島空襲により大破、同地から脱出してパラオに回航するが、同年3月30日に米第58任務部隊のパラオ大空襲に遭い再び大破、着底した。
ここに至って日本海軍は南方での艦艇修理の要を失い、それ以後、南方で大破損した艦は設備の整った内地への帰還を余儀なくされ、多くがその移動中に潜水艦に狙われ轟沈した。
一方で戦況から同型艦を新造する余裕は無く、明石は日本海軍最後の新造工作艦となった。
1944年5月10日除籍。戦後の1954年、大破着底した明石の解体処分が行われた。