設計図
基準排水量:65000t。
満載排水量:74200t。
全長:263m。
全幅:38m。
武装:45口径46㎝三連装砲九門。
60口径15.5cm三連装砲六門。
40口径12.7cm連装高角砲十二門。
25mm三連装機銃三十五基。
25mm単装機銃二十五基。
13mm連装機銃二基。
装甲:水線部410㎜。
甲板220㎜。
主砲防盾650mm。
艦橋500mm。
搭載機:7機(カタパルト2基)。
速力:27ノット。
乗員:3160名。
概要
大和型戦艦の2番艦として三菱重工業長崎造船所にて1938年建造開始、1940年進水、1942年竣工。
太平洋戦争中盤に完成。優勢期は後方で温存され続け、戦局悪化後はマリアナ沖海戦、第三次渾作戦などに参加するも、その攻撃力を発揮する機会には恵まれなかった。
1944年10月、レイテ沖海戦に出撃のおり、米軍機から集中攻撃を受け艦隊から落伍、その後も波状攻撃を受け続け、魚雷20~33本被雷、爆弾17~44発命中、至近弾20発以上(諸説あり)という、軍艦として空前絶後の損害を受けて戦没した。だが、その被害を受けても尚9時間もの間沈まずに海上にあったことは驚愕に値する。
沈没間際の酸鼻を極める艦上の有様は、当時水兵として実際に武蔵に乗り組んでいた渡辺清の著作『戦艦武蔵のさいご』で克明に描かれ、戦後生まれの世代にも知られている。
大和の影に隠れがちな武蔵であるが、実は建造段階で副砲防御が強化され、溶接の品質も向上したために実質的な防御力は大和を凌駕していた。そのため日本最強の戦艦は武蔵であり、大和ではなかった。実際に開戦時の連合艦隊参謀長であった宇垣纏は武蔵が沈んだ後、自身の戦時記録に大和の悲劇的運命を予見するかのような記述を残している。
沈没原因
魚雷20発以上を食らったために水線下の装甲とバルジが破壊され、船体の継ぎ目が緩んだりして艦の浸水が徐々に増加し、艦のバランスと浮力が失われたために転覆、沈没した。この際に機関室か弾薬庫が原因と思われる水中爆発が確認されている。アメリカ軍の飛躍的に高性能化したこの時期の魚雷(最新鋭のものは大鳳の水中防御を一撃で食い破る威力を誇る)を20発も食らって浮いていたのは本艦だけであり、最終的には屈したものの、米軍をしてバカな……奴はモンスターか!?と畏れ慄くほどの抗堪性を見せた。
なお、沈没時の水中爆発は二回ほどあり、いずれも大和のように、海中からキノコ雲が立ち昇るほどの爆発ではなかったとの記録があり、弾薬庫の大爆発で船体がバラバラになった大和と比べれば比較的原型を保っていると考えられている。(爆発寸前の白煙の出処が煙突からという証言が残されている)
都市伝説
武蔵の船体は戦後かなりの捜索が行われたが、なかなか発見されなかった。数十年後の昭和後期に、僚艦が報告した地点等の海中探査が試みられたが、残骸の一つも発見できなかったのである(実際は探査機の能力不足などが要因)。
そこでひとつの伝説が生まれた。戦艦武蔵は未浸水区間に詰まった空気のおかげで浮力と自重が吊り合い、水深1000m超かつ強い潮流のあるシブヤン海では着底前に深度が安定し、沈没時の姿で海中を潮流に乗ってさまよっているというものだ。戦後、微速で海底を進む巨大な影が漁民によって目撃されたとの証言も残されている事から、創作のネタに使われ、かの松本零士は『超時空戦艦まほろば』作中にシブヤン海海戦のままの状態で海中を漂う戦艦武蔵を描いている。戦闘停止時にも機関は虫の息ながらも生きていた(水没寸前の写真で、煙突からの排気が正常だった事が見てとれる)ため、撃沈から着底までの時間にかなり流された可能性は指摘されていた。
戦後の知名度
『戦艦武蔵のさいご』で一定の知名度は得たものの、宇宙戦艦ヤマトで国民的人気を得た大和には到底及ばず、大和の影に隠れている。海中探査も、昭和後期に海中探査が一回行われたものの、断念した以後は一切の調査が行われていない。大和が複数回にわたって大々的に行われ、その詳細図まで判明しているのとは対照的である。
大和と同じ姿を持っていながら、大和の影に徹し、レイテ沖海戦の生き残りの多くが口封じにマニラ戦に駆り出されたりして戦死してしまった(とはいえ最終的に300余名程度が戦後まで生き延びている)事も手伝って、武蔵が顧みられることは少ない。レイテ沖海戦から幾星霜の月日が経過していく中、シブヤン海に眠る彼女が光を浴びる日は訪れるのだろうか…だが。
ついに発見された戦艦武蔵
長年未発見で前述のような都市伝説が生まれた戦艦武蔵。
その戦艦武蔵が2015年3月3日、シブヤン海の深さ1000m以上の海底に沈んでいるのが発見された。
発見したのはマイクロソフトの共同創設者の1人で、現在は資産運用や投資を業務とするバルカン社を経営しているポール・アレン氏。氏は以前にも戦艦ビスマルク等の亡骸を明らかにしている、海洋探索家でもある。
艦首は横に少し傾斜した状態で海底に着底しており、菊花紋章は脱落して無くなっているが、台座痕はくっきりと残っている(因みに戦艦大和では脱落せずに残っていた)。また艦首に左右ある巨大な錨の内、左舷側の錨が無い。コレは沈没時に左舷の錨を切り離したという記録とも一致する。46センチ砲は大和と同様に抜け落ち、据え付け用の大穴が開いていた。副砲である15.5センチ砲も一部を海底の沈殿物に埋もれた状態で発見された。正し、砲身その物は抜け落ちている。因みに、主砲本体は画像は出ていないものの、副砲と同じくほぼ場所は特定されている様である。
沈没時に脱落した艦橋を船尾に押し潰した戦艦大和とは違い、武蔵の第一艦橋と夜戦艦橋は戦艦大和と同じように脱落して半壊しながらも横倒しの状態で残っている。
この調査の際に艦橋トップ部分の15メートル測距儀の基部にも観測用とおぼしき窓と思われる開口部が多数発見された。この開口部は現在の残っている資料にもない新発見である。
また航羅針盤艦橋横の射撃指揮装置近くにシールドつき三連機銃が発見された。
コレまでの定説ではシールド無しとなってた為、これも新発見である。
タービン周辺が剥き出しなので右舷の装甲は爆発によって吹き飛んでる模様で周辺には近くには主煙突の残骸等も存在しており、機関部周辺に合ったと思われるバルブハンドルに日本語で下には「主」、「弁」などの漢字。上には「開く」という漢字が刻印されていた。
艦尾の下部分は完全に横転して海底に着底し、スクリューや巨大な舵も転覆した状態で発見された。4つあるスクリューは内3つはほぼ無傷であったが1つは軸から折れ曲がっている。また主舵は至近弾による変形や赤褐色の塗装が見える。
艦尾上部の末端に設置されていた水上機用主射出機と水上機移動用レール&ターンテーブルを持つ飛行甲板が水平でほぼ綺麗な形で海底に着底していた。前述に書いた様に艦尾の下部分は完全に横転しており、沈没時に怒った爆発によって上部と下部で別れて着底したと思われる。
日本語が書かれた金属板が見て取れる。コレは後に専門家やネットユーザーの調べによって、艦尾の水上機カタパルトの操作説明書である事が判明している。
この他武蔵沈没海域周辺には機銃や高角砲・砲弾・主砲の着弾観測機器や水上機の主翼の残骸等と言った残骸が周辺海域に散らばっており、沈没状態から見て、戦艦武蔵はの船体は艦首周辺・艦尾上部・艦尾下部っと3分割の状態で沈んでいる様である。
余談
なおこの大発見に対し、「武蔵は自分たちが9年前に見つけていた」と反論するグループも現れたが、文字通り「言うだけはタダ」である程度の状態でしかなくその公式な発表もなかったこと、アレン氏は発表と同時に武蔵と確定するに十分な映像を配信していることなどから、今後もアレン氏が発見者となる事実には変わりがないと思われる。
もう一つの大発見
そしてこの戦艦武蔵には2015年05月06日、もう一つの大発見があった。
主砲である46センチ砲の発射シーンを写した写真を元乗員の遺族が発見したと言うニュースだった。
↑発見された写真を模写したイラスト
コレまで大和型戦艦の主砲発射シーンを写した写真と言うのは一枚も無く、大和型戦艦の資料としては大変貴重な写真である。
因みにこの写真が艦尾側から撮影されていて落ち着いた撮影状況に見える為、完成直後の射撃訓練ではないかと推測されている。艦橋を上回るほどの発砲炎、衝撃波にどやしつけられ吹き飛ぶ海面、しかしそれに動揺する様子もない武蔵の船体、どれをとっても規格外の光景をとらえたショットである。
この主砲発射シーンを映した写真は今後大和ミュージアムで公開する予定だそうだ。