陸軍48師団
だいにっぽんていこくりくぐんだいよんじゅうはちしだん
概要
昭和15年に編成された大日本帝国陸軍の師団。前身は台湾混成旅団及び歩兵第47連隊である。台湾混成旅団が所属していた台湾軍とは、その名の通り台湾を本拠地とする軍であるが他の軍と異なり天皇直属であった(有名な例では乃木大将率いる第3軍は満州軍に所属していた)。
台湾軍は台湾にありながらも部隊は高砂義勇隊や軍属という例外を除き全て内地出身者で構成された。これは太平洋戦争末期まで台湾出身住民が厳密には内地人と同じ「大日本帝国臣民」とされず、臣民の義務である兵役が免除されていたためである。
太平洋戦争開戦当時、第48師団は51個師団(独立、留守除く)を擁する日本陸軍のうちで3個しか存在しなかった機械化師団の一つであり精鋭として知られた。もっとも機械化師団というよりは自動車化師団といった方が適当である。何故自動車化師団が3個しかなかったというと、八八艦隊計画に代表される海軍の法外な予算要求のしわ寄せを喰らって陸軍の装備更新が遅t(ry
ともかく第48師団は太平洋戦争初期には貴重な機械化戦力として大活躍した。フィリピン攻略戦では第14軍の主力としてルソン島中西部のリンガエン湾に上陸すると首都マニラを目指して南下した。バターン半島、コレヒドール島の篭城を計画していた米軍の都合もあり、上陸からわずか11日という驚異的な速さでマニラを陥落させた。
マニラ陥落後は、予想以上の速さで南方作戦が進捗していたため第48師団はバターン半島、コレヒドール島攻略には参加せず、代りに本命である蘭印作戦のジャワ島攻略参加のためフィリピンを離れた。なお第14軍はバターン半島で予想外の強力な抵抗に遭い、その結果フィリピン攻略は大幅に遅れた。
ジャワ島攻略戦ではジャワ島東部のクラガンへの上陸後、ジャワ島の主要都市であるスラバヤを目指して進軍し、抵抗する蘭印軍を蹴散らして上陸から6日後にスラバヤに入城した。
以下の記事は「高砂義勇隊」を混同している。上記の通り第48師団が台湾出身者で構成されたという事実はない。
昭和19年の動員令まで狭義の「内地」(※1)である日本列島以外は徴兵の対象外であり、したがって構成員のほとんどは志願兵である。列島出身者からは大和民族以外の兵役志願者ということで義勇兵と呼ぶ場合もあった(※2)。
特に日本統治まで近代言語を持たなかった山岳地帯の部族(※3)出身者は精強な兵が多く、また亜熱帯での生活に慣れていたためマッカーサーの飛び石戦法が効かず(※4)、度々連合軍を奇襲しては苦しめた。
このような特徴を持っていたため太平洋戦争では迅速な揚陸能力を備えた洋上機動部隊として整備され、南方をマレー半島からニューギニアまで進出した。
とにかく兵糧攻めは効かない(※4)わ、弾薬尽きててもうっかり熱帯林に誘い込まれようもんなら後ろから短刀もって襲ってくるわ、飛行機で近づこうにも九二式重機や味方の遺棄品や敵の鹵獲品の機関砲を椰子の木に縛って応戦してくるわ(※5)で手に負えないため、最後はティモール島に立てこもったところを連合軍は華麗にスルーして終戦を迎えた。