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持統天皇の編集履歴2015/10/16 13:50:38 版
編集者:夏みかん
編集内容:読み方を追加しました。

概要

生没年 大化元年(645年)~大宝2年(702年)

 飛鳥時代後期の天皇。第38代天皇・天智天皇を父に、蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘を母として生誕、名を鸕野讃良皇女(うのさららのひめみこ)といい、後に叔父・大海人皇子の皇后となり、夫亡きあと第41代天皇として即位した。『日本書紀』によれば、落ち着きのある広い度量の持ち主であったとされる。

 斉明天皇3年(657年)、皇太子・中大兄皇子(後の天智天皇)の後嗣を生むことを望まれて、13歳で叔父・大海人皇子の妃となる。

 斉明天皇7年(661年)、中大兄皇子らを中心に唐・新羅連合軍の侵攻によって滅亡した百済救済計画が遂行され、斉明天皇、中大兄皇子、大海人皇子らとともに朝倉宮(福岡・博多)に随行するが、天皇は同年朝倉宮で崩御。

 天智天皇元年(662年)、皇太子・中大兄皇子は即位することなく現地で指揮を執るが(称制)、白村江の戦いで日本軍は唐・新羅連合軍に大敗、翌天智天皇2年(663年)、大和へと撤退を余儀なくされた。なお、鸕野讃良皇女は天智天皇元年、筑紫の娜大津で草壁皇子を出産している。

 天智天皇7年(668年)、近江遷都が行われ、戦後処理にあたっていた中大兄皇子が即位、天智天皇となり、弟・大友皇子が太政大臣に任じられる。大海人皇子は立太子したとされるが、皇位継承を固辞し吉野に出家する。同年、中臣鎌足が死去。

 天智天皇10年(671年)、天智天皇が崩御、『日本書紀』には大友皇子が即位したとの記述がないが、『水鏡』や『扶桑略記』には天皇崩御二日後に大友皇子が皇位を継いだとの記述が見られ 、明治3年(1870年)に「弘文天皇」の追号が贈られることとなった。

 天武天皇元年(672年)、皇位をめぐって弘文天皇と大海人皇子による戦いが起き、1か月に及ぶ戦いの末、天皇方が敗れて弘文天皇は自害、大海人皇子は即位し天武天皇となり、草壁皇子を皇太子とする(壬申の乱)。

 朱鳥元年(686年)9月、天武天皇が崩御、鸕野讃良皇女は称制となり政治を総攬する。

 持統3年(689年)、皇太子・草壁皇子が薨去し、翌持統4年(690年)、鸕野讃良皇女は即位、持統天皇となり天武天皇の長子・高市皇子を太政大臣とする。

 持統天皇8年(694年)12月、中国の様式を取り入れた藤原宮に遷都。

 持統天皇10年(696年)、太政大臣の職にあった高市皇子が薨去、皇族間に意見の相違があり、協議の末、亡き草壁皇子の第二皇子・軽皇子を皇太孫に定める。

 持統天皇11年(697年)、天皇は孫の軽皇子に皇位を譲り(第42代・文武天皇)、自らは太上天皇として天皇を後見、大宝2年(702年)、持統天皇は崩御した。(笠原英彦『歴代天皇総覧』)

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女性天皇 女帝 天皇

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