概要
八八艦隊の4番艦として計画されていた戦艦で、加賀型戦艦の2番艦。1920年2月16日に三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工され、式典には皇太子時代の昭和天皇と随行の東郷平八郎海軍大将が立会い、皇太子殿下が最初のリベットを締めたという。1921年12月18日進水。進水命名式には伏見宮博恭王や加藤友三郎海軍大臣も出席した。進水の際、くす玉が割れないという“事故”が発生し、縁起の悪さが囁かれた。
最期
そのまま工事が続いていたが、ワシントン条約による保有制限により建造中止され、同年7月に未成のまま海軍に引き渡された。この時点で最上甲板以下の船体はほぼ完成しており、砲塔や煙突なども別に建造が進められていた。その後、作業員の仮居住施設や被曳航装置の設置が行われ、同年8月1日から8月4日にかけて運用術練習艦「富士」に曳航されて、呉へと回航された。
呉に回航された土佐は、1924年6月から数ヶ月に渡る実験に従事した。実験内容は亀ヶ首試射場からの砲撃や船体に固定した爆薬を用いた、砲弾や魚雷などに対する防御力強化、新型砲弾の効果の研究であり、これによって得られたデータは、後の大和型戦艦の設計にも活かされた。その後、土佐は1925年2月2日に標的艦「摂津」に曳航されて呉を出港し、翌日に佐伯港に入港して仮搭載物の撤去や自沈用発火装置の取り付けを行った。そして、同年2月9日に自沈した。
余談
長崎市にある軍艦島は、土佐に似ていた事に由来すると言われる。また、「土佐は自沈しておらず、どこかに秘匿されている」という噂が、当時の少年たちの間で囁かれていたという。