継続戦争
けいぞくせんそう
≪継続戦争≫ (冬戦争のつづき)
≪冬戦争≫当時の諸国の対応には冷たいものがあった。周辺国のノルウェーやスウェーデンはソビエトとの関係悪化を恐れて中立を維持し(「他人事を決め込んだ」とも)、文字通りフィンランドは孤立無援の状況に置かれたのだ。
1940年8月、フィンランド政府とナチスドイツは密約を結び、フィンランド国内へのドイツ軍の駐留を認める。この選択によってフィンランドは枢軸国の仲間入りを果たすこととなった。
1941年6月22日、ナチスドイツによる≪バルバロッサ作戦≫の発動によって≪独ソ戦争≫が始まる。
当初のフィンランドは中立を宣言していたが、国内からの攻撃に対してソビエトが反撃。
6月26日、フィンランドはあくまでもナチスは無関係とはしながらもソビエトに宣戦布告した。これが≪継続戦争≫のはじまりである。
連合諸国はこれを不当として、イギリスなどがフィンランドに宣戦布告。こうして「枢軸国フィンランド」の対ソ第二次戦争は開始された。
1941年7月、フィンランドは「失地カレリア」に突入。
8月末には激戦の末にかつての国境を取り返した。以前の苦戦とは裏腹に、経過は好調であった(ただし、相変わらず装備は脆弱)。
だが1941年末、ナチスドイツのモスクワ攻略作戦≪タイフーン作戦≫が失敗。
戦争は膠着状態となり、もとより失地を奪還する以上の望みが無かったフィンランドも防衛体制をとった。ナチスドイツの支援をしつつ、それ以降の積極的な攻勢は控えたのだ。
一方、フィンランドはこの頃もうひとつの、心理的にはナチスなんかより何倍も重要な同盟国・日本がドイツに呼応してソ連に宣戦布告してくれることを望んでいた。反対側で火事を起こせば、さしものソビエトも音を上げる。実はドイツもそう望んでいたのだ。
だが日本の事情は「何をおいてもまず石油」という状況に陥っていた。ソ連へ攻撃を加えたところで、ドイツと連絡する長い道のりを超えるまで、何の解決にもならない。そのため日本は日ソ中立条約を堅持してアメリカに宣戦布告した(もともと日本に条約破りなんぞ出来るわけがないのだが)。
フィンランドはソ連を支援するアメリカに降りかかった災厄に歓喜したが、結果的には敵を1国増やしやがっただけになった。
1943年、≪スターリングラードの戦い≫でナチスドイツは大損害を出して敗北。
これ以降はフィンランドも講和の道を模索し始める。
だが、それはナチスドイツが許さなかった。離脱の動きをくみ取ったドイツはフィンランドへの禁輸措置へ踏み切る。既にドイツ以外との貿易の無かったフィンランドは、たちまち物資不足に陥った。結局、戦争の継続を条件に貿易を再開してもらうのだった。
1944年1月、ソビエトがレニングラードを奪還。これによりフィンランドの軍事的な価値も薄れることになった。レニングラードを脅かす価値が失われたのだ。
これを受け、政府も再び講和に踏み切ろうとする。だが今度はソビエトが「講和の条件は領内のドイツ軍を独力で追い出すこと」という条件を提示。これもまた受け入れがたいものであった。
なぜなら、先に連合国と講和したイタリアやハンガリーは、直後にドイツ軍の全土占領を受けた上に、傀儡政権を立てられて戦争を継続するハメに陥っていたのである。それ以上に「昨日の戦友」に銃を向けることは躊躇されたのだ。しかもそれは日本への裏切りにも他ならない。
仕方なくフィンランドは交渉を打ち切ってナチスドイツの防衛戦に協力。だがソ連軍は驚くほど「戦い慣れ」をしており、さしものフィンランドも苦戦を余儀なくされた。「大粛清」によって地に落ちたソ連軍の質は実戦で鍛えられ、今や精強な軍勢になっていたのだ。
1944年6月9日、≪ノルマンディー上陸作戦≫が発動。
同6月22日、これに呼応してソビエトでも全ての戦線で一大攻勢を敢行する。この作戦は≪バグラチオン作戦≫と呼ばれ、人類史上最大規模と言われる攻勢である。もちろんフィンランド方面も苛烈な攻撃にさらされ、軍は大幅な後退を余儀なくされた。
当然、頼れる相手はナチスドイツだけである。当時のリュティ政権は「最後まで戦争を離脱しない」との確約を武器にして援軍を確保。これを受け、ドイツから援軍・支援物資が続々と到着し始めた。
こうしてソビエトの侵攻を凌ぎ、講和までの時間を稼ぐための壮絶な防衛戦が始まった。
戦線は既にヴィープリ〜クパルサーリ〜タイペレを結ぶ線(VKT線)にまで後退(つまり大幅に後退して失地した)しており、もはや一刻の猶予も無かったのだ。
支援物資を与えられたフィンランド軍は尋常ならぬふんばりを見せ、侵攻部隊のいくつかを全滅させる事でソ連軍の足を止める。
だが、それすらも時間稼ぎ程度にしかならなかった。ぐずぐずしていれば敵戦力は回復し、今まで以上の攻撃力をもって突破してくる事は必至なのだ。すべては時間との勝負だった。
一方、ソビエトも「いつまでも小物に手間取っている訳にはいかない」と認識を改めていた。効率が悪すぎるのだ。大した資源も戦略的な価値もないくせに、抵抗だけはやたらと強固なのである。
ソビエトの側も「フィンランドが降伏するのなら」と考えを変えつつあった。
講和にあたって問題になったのはフィンランド政府とヒトラーとの確約である。
苦悶の末、リュティ大統領の辞任、マンネルハイム新大統領の就任という形に収まった。
「ヒトラーとの確約は前大統領の個人的なもの」として破棄することにしたのだ。
1944年9月19日、モスクワ休戦条約に調印。
結局、国境線は「冬戦争」終結当時で確定し、その他にも多くの不利を被らなければならなかった。
その後、国内に残るドイツ軍を排除するための≪ラップランド戦争≫が起こった。
両者ともに「比較的穏便な戦争」によって「列を乱さずに撤退」するはずだったのだが、これを予期したソビエトの横やりや、「裏切り者に銃を向けないわが兵」に業を煮やしたヒトラーが焦土作戦を指示。
かくしてラップランド地方は壊滅的な打撃を受けてしまう。
ともかく、この英断によりフィンランドは末期の枢軸国連合から離脱するという奇跡を成し遂げたのである。
戦後はソビエトの強い影響下に置かれながらも独立性を維持していた。軍備の多くを占めたのはソビエトの装備だったが、時にはMiG-21とドラケンが同居するという光景も見られた(きっと「また敵の装備を分捕って使うためさ!」と言う事だろう)。
一方、マンネルハイム元帥にその座を譲ったリスト・リュティ大統領は戦後、ナチスに加担したとされて禁固10年の判決を受ける。
これは講和条約に含まれている「戦争犯罪人の処罰」という項目に従ったもので、1949年には健康上の問題から釈放されている。以降は政界復帰を果たすことなく、1956年に死去したが、葬儀はソビエトの反対にも関わらず国葬にて執り行われたという。
両国の戦死・行方不明者数
フィンランド | ソビエト | |
冬戦争 | 26662人 | 126875人 |
継続戦争 | 58715人 | 約200000人 |
二つの戦争を経た挙句、結局は動かなかった国境のためにこれだけの命が失われたのである。
フィンランド約8万5千人、ソビエトでは約32万6875人。合計では40万人以上である。
負傷者も含めれば、この数は14万人と116万人にまで膨れ上がる。まさに「おびただしい数である」としか言いようがない。
同じく太平洋戦争での日本の戦死者は174万人と言われている。
この数に比べれば、フィンランドの払った犠牲は小さいと言う事も出来るかもしれない。
確かに世界地図で見れば、戦場となったカレリア地方は「けし粒」のような大きさである。
だがこの小さな土地のため、これだけ多くの人間が命を捧げたのだ。
そこにはそれだけの意味があり、それだけの価値があった。
事実、ソビエトは戦後のフィンランドを共産化しようとはせず、ソ連軍が駐留することもなかった。つまり、強圧的な政策は控えたのだった。これには地理的な事情もあり、ソビエトにとってフィンランドの重要度が高くなかった事にも起因する。