ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

継続戦争の編集履歴

2014-08-22 21:01:18 バージョン

継続戦争

けいぞくせんそう

第二次ソ芬戦争(1941.6.26-1944.9.19)とも。

第二次ソ芬戦争(1941.6.26-1944.9.19)のこと。

冬戦争からの継続であるとの認識のためフィンランドではこの戦争をこう呼称される。

ソ連では「大祖国戦争」に、独逸他では第二次世界大戦に含まれる。


「継続戦争」 (冬戦争のつづき)

『冬戦争』当時の諸国の対応については冷たいものがあった。

周辺のノルウェースウェーデンソビエトとの関係悪化を恐れて中立を維持し、 (『他人事を決め込んだ』とも)

文字通りフィンランドは孤立無援に置かれたのだ。


1940年8月、フィンランド政府とナチスドイツは密約を結び、国内のドイツ軍駐留を認める。 この選択でフィンランドは枢軸国の仲間入りを果たす。


1941年6月22日、ナチスドイツは「バルバロッサ作戦」を発動。 『独ソ戦争』のはじまりである。 当初フィンランドは中立を宣言していたが、国内から攻撃に対してソビエトが反撃。 6月26日、フィンランドあくまでもナチスは無関係とはしながらもソビエトに宣戦布告。『継続戦争』のはじまりである。


連合諸国はこれは不当として、イギリスなどはフィンランドに宣戦布告。 こうして「枢軸国フィンランド」の対ソ第二次戦争は開始された。


1941年7月、フィンランドは『失地カレリア』に突入。

8月末にはこうした激戦の末、かつての国境を取り返した。 以前の苦戦とは裏腹に、経過は好調であった。

(ただし、相変わらず装備は脆弱)


だが1941年末、ナチスドイツのモスクワ攻略作戦『タイフーン作戦』が失敗。

戦争はこう着状態となり、もとより失地奪還以上の望みが無かったフィンランドも防衛体制をとった。ナチスドイツの支援はしつつも、以降の積極的な攻勢は控えたのだ。


一方、フィンランドはこの頃もうひとつの心理的にはナチスなんかより何倍も重要な同盟国、 日本がドイツに呼応してソ連に宣戦布告してくれることを望んでいた。 反対側で火事を起こせば、さしものソビエトも音を上げる。実はドイツもそう望んでいたのだ。

だが、日本の事情は何をおいてもまず石油、という状況に陥っていた。 ソ連への攻撃はドイツと連絡する長い道のりを超えるまで、何の解決にもならない。 その為日本は日ソ中立条約を堅持してアメリカに宣戦布告した

(元々日本に条約破りなんざできるわけないんだが)


フィンランドはソ連を支援するアメリカに降りかかった災厄に歓喜したが、

結果的には敵を1国増やしやがっただけになった。


1943年、『スターリングラードの戦い』でナチスドイツは大損害を出して敗北。 これ以降はフィンランドも講和を模索し始める。 だが、それはナチスドイツが許さなかった。

離脱の動きをくみ取ったドイツはフィンランドへの禁輸措置へ踏み切る。

すでにドイツ以外との貿易の無かったフィンランドは、たちまちモノ不足に陥った。

結局、戦争継続を条件に貿易を再開してもらうのだった。


1944年1月、ソビエトがレニングラードを奪還。

これによりフィンランドの軍事的価値も薄れる事になった。 レニングラードを脅かす価値が失われたのだ。


これを受け、政府も再び講和に踏み切ろうとする。

だが今度はソビエト『講和の条件は領内のドイツ軍を独力で追い出すこと』という条件を提示。

これもまた受け入れがたいものであった。


なぜなら、先に連合国と講和したイタリアハンガリーは直後にドイツ軍が全土を占領。 傀儡政権を立てられて戦争を継続するハメに陥った。 それ以上に『昨日の戦友』に銃を向けることは躊躇されたのだ。 しかもそれは日本への裏切りにも他ならない


仕方なくフィンランドは交渉を打ち切って防衛戦に協力。 だがソ連軍は驚くほどの「戦い慣れ」をしており、さしものフィンランドも苦戦を余儀なくされた。 「大粛清」で底に落ちた軍の質だったが、実戦で鍛えられて今や精強な軍勢になっていたのだ。


1944年6月9日、「ノルマンディー上陸作戦」発動。

同6月22日、これに呼応してソビエトでも全ての戦線で一大攻勢を敢行。

この作戦は「バグラチオン作戦」と呼ばれ、人類史上最大規模と言われる攻勢である。


もちろんフィンランド方面も苛烈な攻撃にさらされ、軍は大幅な後退を余儀なくされた。 当然、頼れるものはナチスドイツだけである。 リュティ政権は「最後まで戦争を離脱しない」との確約を武器に援軍を確保。 これを受け、ドイツから援軍・支援物資が続々と到着し始めた。


こうしてソビエトの侵攻を凌ぎ、講和までの時間を稼ぐための壮絶な防衛戦が始まった。 戦線は既にヴィープリ〜クパルサーリ〜タイペレを結ぶ線(VKT線)にまで後退し、

(つまり大幅に後退して失地した)

もはや一刻の猶予も無いのだ


支援物資を与えられたフィンランド軍は尋常ならぬふんばりを見せ、

侵攻部隊のいくつかを全滅させる事でソ連軍の足を止めた。


だが、それすらも時間稼ぎ程度にしか過ぎなかった。

ぐずぐずしていたら敵は回復し、今まで以上の攻撃力で突破する事は必至なのだ。

すべては時間との勝負だった


一方、ソビエトも「いつまでも小物に手間取っている訳にはいかない」と認識を改めていた。

効率が悪すぎるのだ。

大した資源も戦略的価値すら無いくせに、抵抗だけはやたらと強固なのである。

ソビエトの側も「あちらが降伏するのなら」と考えを変えつつあった。


講和にあたり、問題になったのはヒトラーとの確約である。

苦悶の末、リュティ大統領の辞任・マンネルハイム新大統領の就任という形に収まった。

「確約は前大統領の個人的なもの」として破棄することにしたのだ。


1944年9月19日、モスクワ休戦条約に調印。

これによりフィンランドソビエトの戦闘行為は停止された。

結局、国境線は「冬戦争」終結当時で確定し、その他にも多くの不利を被らなければならなかった。


その後、国内に残るドイツ軍を排除するための「ラップランド戦争」が起こった。

両者ともに「比較的穏便な戦争」によって「列を乱さずに撤退」するはずだったのだが、

これを予期したソビエトの横やりや、

「裏切り者に銃を向けないわが兵」に業を煮やしたヒトラーが焦土作戦を指示

かくしてラップランド地方は壊滅的打撃を受けてしまった。


ともかく、この英断により末期の枢軸国連合から離脱するという奇跡を成し遂げたのである。 戦後はソビエトの強い影響下に置かれながらも独立性を維持していた。 軍備の多くを占めたのはソビエトの装備だったが、 時にはMiG-21ドラケンが同居するという光景も見られた。

(きっと『また敵の装備を分捕って使うためさ!』と言う事だろう)


いっぽう、マンネルハイム元帥にその座を譲ったリスト・リュティ大統領は戦後、 ナチスに加担したとされて禁固10年の判決を受けた。 これは講和条約に含まれている『戦争犯罪人の処罰』という項目に従ったもので、 1949年には健康上の問題から釈放されている。 以降は政界復帰を果たすことなく、1956年に死去している。 葬儀に際してはソビエトの反対にも関わらず、国葬にて執り行われたという。


  • 両国の戦死・行方不明者数

フィンランドソビエト
冬戦争26662人126875人
継続戦争58715人約200000人

結局動かなかった国境のために、これだけの命が失われたのである。

フィンランド約8万5千人、ソビエトでは約32万6875人。合計では40万人以上である。

負傷者も含めれば、この数は14万人と116万人にまで膨れ上がる。

まさに「おびただしい数である」としか言いようがない。


同じく太平洋戦争での日本の戦死者は174万人と言われている。

この数に比べれば、フィンランドの払った犠牲は小さいと言う事も出来るかもしれない。

確かに世界地図で見れば、戦場となったカレリア地方は「けし粒」のような大きさである。


だがこの小さな土地のため、これだけ多くの人間が命を捧げたのだ。

そこにはそれだけの意味があり、それだけの価値があった。


事実、ソビエトは戦後フィンランドを共産化しようとはせず、 ソ連軍が駐留するという事も無かった。 つまり、強圧的な政策は控えたのだった。 これには地理的な事情もあり、ソビエトにとっての重要度が高くなかった事にも起因する。

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました