第二次ソ芬戦争(1941.6.26-1944.9.19)のこと。
フィンランドにおいては冬戦争から継続した戦争であるという認識のため≪継続戦争≫と呼称される。
ソ連側では≪大祖国戦争≫に、独逸や諸外国では第二次世界大戦に含まれる。
≪継続戦争≫ (冬戦争のつづき)
≪冬戦争≫当時の諸国の対応には冷たいものがあった。周辺国のノルウェーやスウェーデンはソビエトとの関係悪化を恐れて中立を維持し(「他人事を決め込んだ」とも)、文字通りフィンランドは孤立無援の状況に置かれたのだ。
1940年8月、フィンランド政府とナチスドイツは密約を結び、フィンランド国内へのドイツ軍の駐留を認める。この選択によってフィンランドは枢軸国の仲間入りを果たすこととなった。
1941年6月22日、ナチスドイツによる≪バルバロッサ作戦≫の発動によって≪独ソ戦争≫が始まる。
当初のフィンランドは中立を宣言していたが、国内からの攻撃に対してソビエトが反撃。
6月26日、フィンランドはあくまでもナチスは無関係とはしながらもソビエトに宣戦布告した。これが≪継続戦争≫のはじまりである。
連合諸国はこれを不当として、イギリスなどがフィンランドに宣戦布告。こうして「枢軸国フィンランド」の対ソ第二次戦争は開始された。
1941年7月、フィンランドは冬戦争で失ったカレリア地峡に進撃。
8月末には激戦の末にかつての国境を取り返した。以前の苦戦とは裏腹に、経過は好調であった(ただし、相変わらず装備は脆弱)。
1941年末、ドイツ軍によるモスクワ攻略作戦≪タイフーン作戦≫が失敗。
ドイツ軍は劣勢となり、次第に前線を押し返されていった。もとより失地を奪還が戦略目標であったフィンランドは防衛体制を固め、ソ連軍の反撃に備える。
一方、フィンランドはこの頃もうひとつの、心理的にはナチスなんかより何倍も重要な同盟国・日本がドイツに呼応してソ連に宣戦布告してくれることを望んでいた。東西から挟撃されれば、さしものソ連も音を上げる。これはドイツも期待していたことであった。
だが当時の日本は「石油資源の確保が第一」という状況にあり、ソ連へ攻撃は敵対国を増やすだけの無意味な行動であることは明らかであった。そのため日本は日ソ中立条約を堅持してアメリカに宣戦布告。南方作戦及び、その支援作戦である真珠湾攻撃を行った。
1943年、前年より続いた≪スターリングラード攻防戦≫はドイツ第6軍の降伏で幕を閉じる。B軍集団は壊滅し、またA軍集団も敗走したことによって、戦況は一気にソ連優位に傾いた。
これ以降フィンランドは講和の道を模索し始めるが、フィンランドへの支援を行っていたドイツはソ連との単独講和を許さず、フィンランドに対して禁輸措置を行う。これによりフィンランドはたちまち物資不足におちいってしまい、結局、戦争の継続を条件に貿易を再開してもらうのだった。
1944年1月、ソ連軍がレニングラードを奪還。これによりフィンランドの軍事的な価値も薄れることになった。レニングラードを脅かす価値が失われたのだ。
これを受け、政府も再び講和に踏み切ろうとする。だが今度はソビエトが「講和の条件は領内のドイツ軍を独力で追い出すこと」という条件を提示。これもまた受け入れがたいものであった。
なぜなら、先に連合国と単独講和したイタリアやハンガリーは、直後にドイツ軍の全土占領を受けて傀儡政権を立てられてしまい、講話したにも関わらず戦争継続を強いられていたのである。また曲がりなりにもフィンランド軍とドイツ軍は友軍同士であり、「昨日の戦友」に銃を向けるという行為は躊躇されるものであった。
条件を呑めないフィンランドは交渉を打ち切り、ドイツ軍と共にソ連軍の反撃を迎え撃つ。だが一旦は「大粛清」によって地に落ちたソ連軍の練度も、ドイツ軍との戦闘で鍛え抜かれ、今や精強な軍隊に生まれ変わっていた。ソ連軍の大攻勢はクーテルセルカにおけるフィンランド軍の反撃を一蹴し、VT線を突破。フィンランド軍の戦線の崩壊は時間の問題となっていった。
1944年6月9日、≪ノルマンディー上陸作戦≫が発動。
同6月22日、これに呼応してソ連軍もドイツ方面で一大攻勢を敢行する。≪バグラチオン作戦≫と呼ばれる人類史上最大規模の攻勢によりドイツ中央軍集団は壊滅し、以降ドイツ軍は絶望的な後退戦を続けていく。フィンランドもソ連軍の大規模攻撃を予測し、カレリア地峡の軍はVKT線まで大幅に戦線を後退する。
しかしソ連軍と戦うにはドイツの支援が絶対に必要であった。そのため当時のリュティ政権は「ドイツと共に最後まで戦う」と宣言しドイツと協定を結ぶ。それによってフィンランドにはドイツからの援軍や支援物資が続々と到着し始めた。
6月25日、フィンランド軍が防備を固めるVKT線(ヴィープリ〜クパルサーリ〜タイペレを結ぶ線)を突破するべく、ソ連軍レニングラード方面軍がタリ=イハンタラ方面に集結。ソ連軍は猛砲撃ののちタリ近郊より攻撃を始め、ソ連第27戦車連隊がポルティンホイッカ交差点への浸透突破に成功する。後続のソ連軍師団も防衛線を突破し、包囲の危機にさらされたフィンランド軍は残存兵力を投入して反撃。この戦いでフィンランド軍は唯一の機甲師団を投入、第27戦車連隊を同師団が撃破したことによりポルティンホイッカ交差点の奪還に成功し、南方から迫っていたソ連軍を攻勢開始地点にまで押し返した。
27日、フィンランド軍は先の防衛戦を突破したソ連軍4個師団にモッティ戦術を仕掛けるが、圧倒的な集中火力を前に失敗に終わる。翌28日から30日にかけて、フィンランド軍はソ猛追撃を受けながらタリより撤退。事実上最後の抵抗を試みるべく、更に後方のイハンタラ近郊に戦力を集結する。
7月3日、前日の無線傍受でソ連軍の総攻撃を察知していたフィンランド軍は、総攻撃開始直前に砲兵と爆撃機による先制攻撃を敢行。フィンランド軍の所有する火砲の50%以上を投入した熾烈な砲爆撃によりソ連軍の前衛は壊滅、機先を制されたソ連軍はイハンタラ総攻撃に失敗する。その後カレリア地峡で行われた突破作戦も全て失敗に終わり、ソ連軍の進撃はようやく停止したのだった。
この機を逃さずフィンランドはソ連に講話を申し出る。それまで強固な姿勢でいたソ連もドイツとの戦いに集中したい事から「フィンランド相手に手間取っている訳にはいかない」と考えを変えつつあり「フィンランドが降伏するのなら」と態度を軟化させつつあった。
しかし講和にあたって問題になったのはフィンランド政府とヒトラーとの確約である。
苦悶の末、リュティ大統領の辞任、マンネルハイム新大統領の就任という形に収まった。
ヒトラーとの確約は「前大統領の個人的なもの」として破棄することにしたのだ。
1944年9月19日、モスクワ休戦条約に調印。
結局、国境線は「冬戦争」終結当時で確定し、その他にも多くの不利を被らなければならなかった。
その後、国内に残るドイツ軍を排除するための≪ラップランド戦争≫が起こった。
両者ともに「比較的穏便な戦争」によって「列を乱さずに撤退」するはずだったのだが、これを予期したソ連の横槍に加え、「フィンランドの裏切りに」に激昂したヒトラーが焦土作戦を指示。
かくしてラップランド地方は壊滅的な打撃を受けてしまう。
ともかく、この英断によりフィンランドは末期の枢軸国連合から離脱するという奇跡を成し遂げたのである。
戦後はソビエトの強い影響下に置かれながらも独立性を維持していた。軍備の多くを占めたのはソビエトの装備だったが、時にはMiG-21とドラケンが同居するという光景も見られた(きっと「また敵の装備を分捕って使うためさ!」と言う事だろう)。
一方、マンネルハイム元帥にその座を譲ったリスト・リュティ大統領は戦後、ナチスに加担したとされて禁固10年の判決を受ける。
これは講和条約に含まれている「戦争犯罪人の処罰」という項目に従ったもので、1949年には健康上の問題から釈放されている。以降は政界復帰を果たすことなく、1956年に死去したが、葬儀はソビエトの反対にも関わらず国葬にて執り行われたという。
両国の戦死・行方不明者数
フィンランド | ソビエト | |
冬戦争 | 26662人 | 126875人 |
継続戦争 | 58715人 | 約200000人 |
二つの戦争を経た挙句、結局は動かなかった国境のためにこれだけの命が失われたのである。
フィンランド約8万5千人、ソビエトでは約32万6875人。合計では40万人以上である。
負傷者も含めれば、この数は14万人と116万人にまで膨れ上がる。まさに「おびただしい数である」としか言いようがない。
同じく太平洋戦争での日本の戦死者は174万人と言われている。
この数に比べれば、フィンランドの払った犠牲は小さいと言う事も出来るかもしれない。
確かに世界地図で見れば、戦場となったカレリア地方は「けし粒」のような大きさである。
だがこの小さな土地のため、これだけ多くの人間が命を捧げたのだ。
そこにはそれだけの意味があり、それだけの価値があった。
事実、ソビエトは戦後のフィンランドを共産化しようとはせず、ソ連軍が駐留することもなかった。つまり、強圧的な政策は控えたのだった。これには地理的な事情もあり、ソビエトにとってフィンランドの重要度が高くなかった事にも起因する。