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桓武天皇の編集履歴

2016-03-18 00:49:32 バージョン

桓武天皇

かんむてんのう

第50代天皇。光仁天皇第一皇子。天平9年降誕、天応元年即位、大同元年崩御。平安時代の幕を開けられた。

桓武天皇の皇位継承にあたり、三種の神器をうけつぐ「践祚の儀」が、「即位式」に先立って行われた。三種の神器の継承はもちろん以前から時代によって形式をかえながら行われていたが、ここで、1千年以上後の現在とほぼおなじかたちの儀礼が登場したのである。

皇位に即かれた天皇はいくつもの巨大な事業にとりくまれた。


それまでの平城京において弊害が大きかった仏教の刷新を理由として、天皇主導の長岡京への遷都が企てられた。すなわち旧仏教の本拠地となっている奈良の仏教勢力から訣別して政治を立て直すと共に、仏教そのものを新生させることが、長岡遷都の大きな目的と考えられる。

長岡京ではのちに、それまで朝堂院と一体であった内裏を東宮にうつし、政務と儀礼が分離された。こうして歴史上前例のない画期的な飛躍がみられた長岡京だが、2度も大水害に襲われ、しかも水害を防ぐための工事も失敗に終わった。改修の目途が立たず、ここで復旧工事をしてもいつまた洪水に襲われるかわからないため、忠臣和気清麻呂によって平安遷都が提案され、長岡京は10年で廃された。


新しい首都は平安京と名づけられ、明治2年の東京奠都まで、千年以上にわたって日本の首都でありつづけた。延暦3年(西暦784年)の長岡遷都につづく、延暦13年(西暦794年の平安遷都という巨大な国家的事業を成功させた桓武天皇の指導力は卓越したものであり、これが延暦13年から建久3年まで約390年つづく平安時代の幕開けである。


国内体制の整備として格式をまとめようとされ、注釈書がいくつも書かれ、更に天皇の命により正史『続日本紀』が完成された。このほか、農民への出挙(財物全般の利息付貸しつけ)の利率を下げて負担軽減をはかり、様々な困難に直面していた班田収授の期間をのばして励行につとめ、公民の兵役を建前とした軍団をやめて郡司の子弟による少数精鋭の健児にあらため、地方行政にあたる国司の監督を強化するなどされた。


東北の蝦夷の社会に律令型の統治をおよぼしていくことも先帝の時代からの課題であった。延暦16年、天皇は忠臣坂上田村麻呂征夷大将軍に任命し、蝦夷の族長アテルイを降伏させて、律令国家の領域は大きく東北方面に拡大した。


延暦24年、菅野真道と論争した藤原緒嗣は「いま、天下の人民がくるしんでいるのは、蝦夷討伐と平安京造営によってである。このふたつの事業を停止すれば、人々はやすらぐことができるだろう」と主張した。公平無私な桓武天皇はこの意見を採用し、天皇の裁定によってただちに計画仲の第四次蝦夷征伐が中止され、平安京の造営にあたる造宮職も廃止された。


大同元年(西暦806年)、天皇は崩御した。宝算70。


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