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桓武天皇の編集履歴

2016-08-26 23:50:11 バージョン

桓武天皇

かんむてんのう

第50代天皇。光仁天皇の第一皇子。平安京に都を遷したことで知られる。

父・光仁天皇

 第38代・天智天皇の孫・白壁王(後の第49代・光仁天皇)の皇子として天平9年(737年)に生まれ、諱は山部という。母・高野新笠は百済武寧王の子孫と称する和氏であるという。

 父・白壁王は官界で様々な役職を歴任した皇室でも傍流と言える人物で、後ろ楯となる有力貴族もいなかったことから即位する可能性も果てしなく低かったとされている。

 ところが、神護景雲4年(770年)、女帝の称徳天皇が崩御すると天皇が独身であり、有力な後継者となる皇族が粛清されていたことから、天武天皇系最後の生き残りである他戸親王が皇位につくことが期待され、それまでのつなぎとして皇子の父・白壁王が62歳で皇位につくこととなった。

他戸親王の廃太子事件

 即位した光仁天皇は献上された白亀を瑞祥として元号を宝亀に改め、他戸親王の母・井上内親王(天武天皇直系、聖武天皇の皇女)を妃に迎え、宝亀2年(771年)、他戸親王を皇太子とした。

 しかし、皇后・井上内親王は光仁天皇の姉・難波内親王を呪い殺した、あるいは他戸親王の早期即位を願って天皇を呪詛したとして藤原百川探索を受け、ついに皇后も皇太子も廃され、山部親王(後の桓武天皇)が皇太子に立てられた。親王の立太子には母が百済系渡来人の末裔であることから反対の声も多かったが、百川らがそれらの不満を押し切った。

山部親王

 宝亀元年(770年)8月、山部皇子は大学頭、侍従に任じられ、同年10月、父・白壁王の即位にあたって、11月に親王、翌宝亀2年(771年)2月に中務卿に任じられた。

 ところが、前述のとおり、宝亀3年(772年)5月、異母弟・他戸親王が廃太子となり、山部親王は藤原百川らの擁立を受けて、宝亀4年(773年)1月、新たな太子に立てられることとなる。

父・光仁天皇の崩御、そして、即位

 天応元年(781年)4月、父・光仁天皇が恒例と病を理由に退位後まもなく崩御すると、譲位を受けた山部親王は即位し(桓武天皇)、同母弟・早良親王を皇太子に立てた。

 翌天応2年(782年)閏正月、因幡国守・氷上真人川継が謀反を起こし逃走、間もなく捕らえられたが、かかる政情不安に凶作と疫病の流行に見舞われたことから「延暦」に改元された。

長岡京遷都計画

 延暦3年(784年)、度重なる凶事に山背国長岡に遷都することが光仁天皇の重臣として活躍した藤原百川の甥・藤原種継によって提案され、新都造営が始まる。

 長岡遷都の理由としてはいくつか説がある。政治に密着する既存仏教や貴族勢力を置く。新京付近の渡来人勢力との関係。光仁天皇時代から天智天皇系に代わったことによる人心一新。交通の要衝が淀川ー山背ー近江・琵琶湖へと変わったことなどである。

 この中でそれまで平城京において弊害が大きかった仏教の刷新を理由として、天皇主導の長岡京への遷都が企てられたと考えられている。すなわち旧仏教の本拠地となっている奈良の仏教勢力から訣別して政治を立て直すと共に、仏教そのものを新生させることが、長岡遷都の大きな目的だったのである。

 延暦4年(785年)9月、長岡京造営を監督していた中納言・式部卿・藤原種継が暗殺される事件が起き、犯人として藤原家と対立する大伴継人、大伴竹良ら数十人が捕らえられ処刑された。しかし、事件はこれで終わらなかった。皇太子・早良親王に仕える官人まで捕らえられ、黒幕として親王の名が挙がったのである。

 嫌疑をかけられた早良親王は廃されて乙訓寺に幽閉、新たな太子に安殿親王(後の第51代・平城天皇)が立てられた。この処遇に不満をもった親王は絶食を続け淡路へと配流される途次、衰弱して亡くなってしまう。

 新都・長岡京では、それまで朝堂院と一体であった内裏を東宮にうつし、政務と儀礼が分離された。こうして歴史上前例のない画期的な飛躍がみられた長岡京だが、天皇の身内には相次いで不幸が起きたうえ、伊勢神宮の放火、皇太子の発病など凶事が続いた。これらのことに怯えた天皇が陰陽師に占わせたところ、早良親王の祟りだという。怨霊を慰める祭りが行われたが変事は終わらず、長岡京は二度も大水害に襲われ、しかも水害を防ぐための工事も失敗に終わってしまう。改修の目途が立たず、ここで復旧工事をしてもいつまた洪水に襲われるかわからないため、和気清麻呂によって平安遷都が提案され、延暦13年(794年)、長岡京は10年で廃された。

 なお、井上内親王と早良親王の祟りを恐れた天皇は平安京遷都後の、延暦19年(801年)、「崇道天皇」と追尊し、父・光仁天皇を呪詛したとの疑いで追放された井上内親王に皇后位を復すとともにその墓所を山陵と追称している。

平安京遷都

 新しい都は平安京と名づけられ、明治2年(1869年)の東京奠都まで、千年以上にわたって日本の首都でありつづけた。約390年つづく平安時代は遷都がなった延暦13年(794年)が始まりとされている。


 国内体制の整備として格式をまとめられ、注釈書がいくつも書かれた。更に天皇の命により『続日本紀』が編纂された。このほか、農民への出挙(財物全般の利息付貸しつけ)の利率を下げて負担軽減をはかり、様々な困難に直面していた班田収授の期間をのばして励行につとめ、公民の兵役を建前とした軍団をやめて郡司の子弟による健児にあらため、地方行政にあたる国司の監督を強化するなど行われた。


 東北の蝦夷の社会に律令型の統治をおよぼしていくことも先帝の時代からの課題であった。延暦16年(797年)、天皇は坂上田村麻呂征夷大将軍に任命し、蝦夷の族長アテルイを降伏させて、律令国家の領域は大きく東北方面に拡大した。

徳政相論

 延暦24年(805年)、菅野真道と論争した藤原緒嗣は「いま、天下の人民がくるしんでいるのは、蝦夷討伐と平安京造営によってである。このふたつの事業を停止すれば、人々はやすらぐことができるだろう」と主張した。桓武天皇は緒継の意見を採用し、天皇の裁定によってただちに計画されていた第四次蝦夷征伐を中止、平安京の造営にあたる造宮職も廃止された。


大同元年(806年)3月、天皇は70歳で崩御し、柏原陵に葬られた。。


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