岩手県盛岡市出身。
妻とは国際結婚で修業時代に知り合う。
経営者としての職務中も、入浴など私生活においても、一切覆面は外していないらしい。
プロレスラーとしての経歴
新日本プロレス学校(新日本プロレスが開いていたプロレスラー養成所で現在は閉校)で修業した後、本名・村川政徳で1990年3月1日、ユニバーサル・プロレスリングから後楽園ホールのモンキーマジック・ワキタ(現:スペル・デルフィン)戦でデビュー。その後、MASAみちのくのリングネームで、縞の合羽に三度笠を被り入場し、上半身裸でロングタイツを着用するといった現在とは違うスタイル(後に後輩のTAKAみちのくが継承する。)で試合をする。
その後メキシコへ遠征した際に覆面レスラーとなった。リングネームはニンジャ・サスケ、覆面とコスチュームのデザインは現在とほぼ同じだが、頭にちょんまげが付いていた。
1992年3月、謎のマスクマン“スペル・ニーニョ”として一時帰国、シリーズ最終戦でマスクを脱ぎ正体を明かしメキシコへ戻り、8月の帰国を機にザ・グレート・サスケを名乗る。
同年10月、試合後にマイクで東北六県にプロレスを根付かせることを目標とした地域密着型団体・みちのくプロレスの設立を宣言。11月の岩手産業文化センターでのプレ旗揚げ戦を経て、翌年3月16日に岩手・矢巾町民体育館で旗揚げ戦を行う。
1994年、新日本プロレス主催で行われた第一回スーパーJカップに出場、エル・サムライ、獣神サンダー・ライガーに勝利し決勝進出、決勝でワイルド・ペガサスに敗れ準優勝。これで一躍全国区の人気を得、トップレスラーになったばかりか全国放送されてサスケとみちのくプロレスの名が全国に知れ渡る。
1996年4月、ライガーを再び破ってIWGPジュニアヘビー級王座を獲得。以後5回の防衛に成功。
同年8月、新日本プロレス両国大会にて行われた各団体代表によるジュニア8冠統一トーナメント (J-CROWN) において、決勝でウルティモ・ドラゴンを破って初代ジュニア8冠王者に輝き頂点に立つ。
政治家として
2003年3月、岩手県議会議員選挙の盛岡選挙区に出馬を表明。トップ当選する。当選後は、議会での覆面の着用を巡って全国レベルの話題になった。同年5月、議員活動を理由にみちのくプロレス社長を辞任。(2009年8月に社長に復帰)
2007年3月、岩手県知事選挙に出馬を表明。しかし選挙結果は民主党推薦の前衆院議員、達増拓也に及ばず落選。
2011年4月に岩手県議会議員選挙に盛岡選挙区(定数10人)から再度出馬したが落選。