ウルティモ・ドラゴン
きゅうきょくりゅううるてぃもどらごん
小学校3年生時に、テレビでアントニオ猪木の側にいた佐山サトルに憧れ、プロレスに興味を持つ。
高校卒業後、新日本プロレスの入門テストを受け、体力テストはクリアするも履歴書に178cmと身長を記入(実際は170㎝)していたことがばれて、体が小さいことを理由に不合格となる。
しかし、日本ボディービルセンターの会長のもとで手伝いをしながら会長から山本小鉄に紹介してもらい、半年間練習の為道場に通う。
その後ジャパン女子プロレス旗揚げ戦を観戦しにメキシコから来日したUWA(メキシコのプロレス団体、現在はタイトル管理組織)のカルロス・マイネスと遭遇、山本にメキシコ行きを直訴。
山本がUWAとコンタクトを取り、1987年に浅井は渡墨。
その年の5月13日、イルタゴ州バチューカのUWAのアレナ・アフォシオンにてデビュー。畑浩和、佐野直喜(現・佐野巧真)と組み、ロス・ミッショネロス・デ・ラ・ムエルテと対戦。
1988年7月29日には、当時の最年少記録でUWA世界ウェルター級王座を獲得。
1990年、ユニバーサル・プロレスリング旗揚げに参加、エースとして活躍。
1991年にオファーを受けて9月にEMLL(現:CMLL)に移籍し10月に覆面レスラー『ウルティモ・ドラゴン』に変身しリングに上がる。当時EMLLがWWF(現:WWE)と提携、日本ではSWSがWWFと提携していた関係で12月にSWSのリングに上がる。
11月22日に新日本プロレスのIWGPジュニアヘビー級王座を獲得、1993年の年明け1992年度プロレス大賞『技能賞』を受賞。
1996年よりWCWに進出。
10月11日、WAR大阪大会にてIWGPを含むジュニア8冠王者、10月28日には天龍源一郎と荒谷信孝をパートナーにWAR認定世界6人タッグ王座も獲得。
1997年2月1日、WCWと正式契約を結び、4月にWCW・TV王座、12月にはWCW世界クルーザー級王座(現:WWEクルーザー級王座)を獲得。
一方で5月にメキシコ・ナウカルパン市にルチャドール養成学校『ウルティモ・ドラゴン・ジム』を設立、闘龍門の旗揚げ戦を行った。
1998年7月ごろ、WCWでの試合にて負傷した左肘関節のため7月22日にアメリカで手術を受けるが失敗してしまい神経を損傷。現在も後遺症で握力が小学生並しかなく、左手首を引きつける動きができないという。
8月の闘龍門自主興行で無期限欠場を発表。
1999年、兵庫県神戸市中央区に闘龍門JAPAN(現:DRAGON GATE)を設立。
2002年11月12日にメキシコ・イルダゴ州パチューカにて現役復帰し、12月20日の闘龍門後楽園大会で日本復帰戦を行う。
2003年6月24日、WWE正式デビュー、2004年にはレッスルマニア20に出場したあと4月に退団。
同年7月4日に闘龍門JAPANが団体名をDRAGON GATEに改称して闘龍門から独立すると、個人で2度の自主興行を後楽園ホールで行う。
10月にウルティモ・ドラゴンのキャラクターを封印、翌年より2代目ザ・タイガーに変身して活動するが2006年にはウルティモ・ドラゴンを復活。
2017年5月27日にアレナ・メヒコにて行われたデビュー30周年記念興行である『Dragomania XI』において、在メキシコ日本大使から、プロレスを通じた日墨親善活動を称えられ、在外公館公館長表彰を受けた。
2019年9月11日、継続参戦していたDRAGON GATEに本格参戦することが決まった。
さらに9月29日、同団体所属と最高顧問就任が発表された。
アサイ・ムーンサルト
ロープの反動を利用したムーンサルト・アタック。
ラ・ケブラーダ
エプロンサイドから場外にいる相手にするムーンサルト。
ラ・ブファドーラ
リング内にいる選手に、セカンドロープを使いムーンサルト・アタックを行う技。
マヤ式ジャーマン・スープレックス
ジャーマンで投げた後に後転してレッグ・ロール・クラッチでホールドする。
アステカ・スープレックス
相手の背後から右手で相手の左腕を左手で相手の右腕を、それぞれ掴み、掴んだ両腕を相手の胸の前で交差させて放つ。クロスアーム・スープレックスとも呼ばれる。
等。