ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

滝川一益の編集履歴

2011-05-22 04:17:10 バージョン

滝川一益

滝川一益とは戦国時代の織田家に仕えた武将(1525~1586)。

名の読みは『いちます』とも言われている。

戦の駆け引きに優れ、攻めも退却も得意であったことから『進も退くも滝川』と称された。

また、織田信長の元で実力を発揮し、勝家長秀光秀の三人と並んで『織田四天王』の一人に挙げられる。

概要

近江の生まれで、父が甲賀の出身であったことから元は六角家の家臣だったと言われる。

信長に仕えた時期は不明だが、鉄砲の腕前を買われて仕官。その後家中で頭角を現し、徳川家康との同盟交渉の席に立っている。

美濃と隣接する桑名を初め、伊勢、志摩の平定や支配、有力勢力の懐柔を担当する。

長島一向一揆が発生した後は北伊勢で一揆勢と争いながら家康の支援や朝倉攻めなどで各地を転戦し、九鬼嘉隆と共に度々水軍も率いている。本願寺に通じて織田家を裏切った有岡城の調略を行い、物資の補給路を断つのに一役買った。

本願寺の降伏後は関東との取り次ぎ役に就任し、同じ役職だった佐久間信盛が追放されたこともあり、関東の諸大名、特に北条氏との取り次ぎを行う。

武田征伐に際しては主力を務め、戦後に上野一国と信濃の一部を与えられた。その後は関東鎮定を担当する。しかし、本能寺の変で信長が死ぬと北条氏に攻められ、一度は撃退に成功するも二度目で惨敗し伊勢に退去する。更に上記の敗戦に加え、退去している間に清洲会議が行われて一益不在の状態で後継者が決められてしまい、織田家での影響力が低下する。

羽柴秀吉と柴田勝家の争いでは勝家側に付くが、勝家の死後に降伏、所領を没収される。

秀吉が織田信雄、家康と敵対した際は秀吉の味方をして旧領の一部を奪い返すが結局は家康と信雄に敗れて降伏する。

戦後秀吉に三千石を与えられ、そこで余生を過ごした。享年62歳。

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました