神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世
1194年生~1250年没
生い立ち
ホーエンシュタフェン家の神聖ローマ皇帝兼シチリア王であるハインリヒ6世を父とし、シチリア王国の王女であるコンスタンツェを母とする。
幼年の内に両親を亡くし神聖ローマ皇帝の地位は叔父であるシュヴァーペン公フィリップとヴェルフ家のオットーで争われた為に母の実家筋にあたるシチリア王としてシチリア島にて少年時代を過ごす事になり、キリスト教を中心としたヨーロッパ文化とイスラム文化が融合したシチリア島という特異な地にて数多くの学問を学ぶことになる。
1212年に神聖ローマ皇帝となっていたオットー4世の失墜によりフリードリヒ2世が新たに皇帝に即位する事になり、この時に教皇に十字軍遠征を約束した。フリードリヒ2世はドイツの統治を息子のハインリヒ7世に任せる形となり、自身はシチリア島のパレルモに宮廷を置き戦乱で衰退したシチリアの復興に力を注いだ。
十字軍遠征
教皇との約束であった十字軍遠征は中々果たせず、1228年に軍を率いてエルサレムに向かうも途中で病気により帰還した事で教皇の怒りを買い破門される等教皇側との対立は次第に深まっていった。それでも破門の状態にて再びエルサレムへと出発し、アイユーブ朝のアル・カーミルとの会見にて平和理にエルサレムを得るという功績を挙げた(第6回十字軍)。
この時にエルサレム王に即位しているが、破門されたフリードリヒに対する教皇らの反発は強かった。
皇帝派と教皇派
帰国後は教皇側との戦いに費やされる事になり、イタリア半島における諸都市・諸侯らは皇帝派(ギベリン)と教皇派(ゲルフ)に分かれて争う事になり、教皇派に属するイタリア諸都市はロンバルディア同盟としてフリードリヒに抵抗しドイツ王であった息子のハインリヒ7世も教皇派として父に対抗した。
両派の争いはフリードリヒ2世の存命時には決着がつかず1250年12月13日に病死した。
学芸の保護者として
- 幼少の頃からラテン語を習得し難しい学術書を読破していた。また他にもアラビア語など6カ国語を自在に話す事ができた。
- 宮廷には天文学者に占星術師や数学者等の数多くの文化人が集まり、中にはユダヤ人やイスラム系の学者も加わっていた。
- 異国の動物を集めた動物園を持っており、趣味である鷹狩に関しても著作を残している。
- 19世紀のスイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトはフリードリヒ2世を「王座上の最初の近代人」と評している。