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1300クーペの編集履歴

2019-06-23 15:26:39 バージョン

1300クーペ

せんさんびゃくくうぺ

1300クーペとは、本田技研工業が1970年代前半に製造・販売していた乗用車。ここでは、そのベースとなった1300(セダン)およびその後身の145についても記述する。

概要

1969年5月にまずセダンの1300が発売された。エンジンの部品の一つであるキャブレターの数で77(キャブレター1つ)と99(キャブレター4つ)と分けて発売された。


1970年2月に1300クーペが発売される。こちらもキャブレター1つはクーペ7、キャブレター4つはクーペ9と名乗っている。同年11月にセダンがマイナーチェンジを受け、キャブレター4つ仕様が廃止、「ホンダ77」と改名した。1971年6月にはクーペが「ホンダクーペ」と改名、キャブレター4つ搭載エンジンは最上級グレードのみとなった。


だがこの車の売れ行きはお世辞にもよかったとは言えず、1972年11月にシビックのエンジン(の拡大版)を搭載したホンダ145にリニューアルした。しかし、セダンはわずか1年で、そしてクーペは約2年後の1974年10月を持って製造・販売を終了した。なお、ほぼ同時期にホンダは軽乗用車(ライフ、Z。ただしZは同年8月に生産・販売打ち切り)の生産・販売を打ち切っており、これにより1976年5月に初代アコードが誕生するまで、ホンダの自動車のラインナップは、普通乗用車のシビックと軽トラックのTN-ⅴ(→TN7)だけとなってしまった。


ホンダの「黒歴史」?

実はこの車、1970年代の車としては珍しく空冷エンジンを搭載していた。N360の実績があったからではあるが、その一方で、ホンダの技術者たちは、F1マシン・RA302の経験などから、「水冷の方がエンジンの各部の温度を制御しやすい」と提案していた。だが、社長の本田宗一郎は「エンジン水で冷やしても、その水も空気で冷やすものだから、最初から空気でエンジン冷やした方が早い」と取り合わなかった。対立により後のホンダ社長となる久米是志は辞表を提出、出社を拒否し、四国に旅立ってしまった。1か月ほど後、上司の河島喜好に連れ戻された。久米の不在中にエンジニア・川本信彦が中心なってエンジンの改良を進めた。


また、宗一郎が空冷エンジンに固執するあまり、F1チーム監督を務めた中村良夫もかなり辟易しており、後に自ら書いた『F1地上の夢』の中で宗一郎を「人間としては尊敬できるが技術者としては尊敬できない」としている。中村は宗一郎の理化学的における無理解、宗一郎の決定に従わなければならない状況に嫌気がさし、辞めることを考えたが、「宗一郎をもうすぐ引退させるから」という河島らの説得によりとどまる。


技術者達はホンダ副社長の藤沢武夫に宗一郎を説得させるよう頼み、藤沢は「あんたは社長なのか、技術者なのか、どちらなんだ?」と宗一郎を問いただし、折れた宗一郎は水冷エンジンにゴーサインを出すことになった。こうして生まれたのが、初代ライフ、そして初代シビックであった。


このことが直接のきっかけとなって藤沢は経営者引退を決断し、宗一郎もその意を汲んで同時に第一線から退くことになった。


もっとも、空冷エンジンに関しても、軽トラ用として、1977年まで残ってはいる。


外部リンク

何故「大失敗」とまで?ホンダ1300が失敗したと言われる3つの理由(CarMeというサイトの記事)

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