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1300クーペ

せんさんびゃくくうぺ

1300クーペとは、本田技研工業が1970年から製造・販売していた乗用車。ここでは、そのベースとなった1300(セダン)およびその後身の145についても記述する。
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概要編集

1969年5月にまずセダンの1300が発売された。名前通り排気量は1300cc。エンジンの部品の一つであるキャブレターの数で77(シングルキャブレター)と99(4連キャブレター)と分けて発売された。


1970年2月に1300クーペが発売される。こちらもシングルキャブレターはクーペ7、4連キャブレターはクーペ9と名乗っている。同年11月にセダンがマイナーチェンジを受け、4連キャブレター仕様が廃止、「ホンダ77」と改名した。1971年6月にはクーペが「ホンダクーペ」と改名、4連キャブレター搭載エンジンは最上級グレードのみとなった。最高出力は115~100馬力で、これは当時の1300ccエンジンとしては非常に高出力な数値であった。


だが、この車の売れ行きはお世辞にもよかったとは言えず、車としての完成度も褒められたものでは無かった(後述)。1972年11月にシビックのエンジン(の拡大版)を搭載したホンダ145にリニューアルした。しかし、セダンはわずか1年で、そしてクーペは約2年後の1974年10月をもって製造・販売を終了した。ほぼ同時期にホンダは軽乗用車(ライフ、Z。ただしZは同年8月に生産・販売打ち切り)の生産・販売を打ち切っており、これにより1976年5月に初代アコードが誕生するまで、ホンダの自動車のラインナップは、普通乗用車のシビックと軽トラックのTN-5(→TN7)だけとなってしまった。


また、エンジンにアルミ合金をふんだんに使っていた為、リサイクル業者に好まれ、廃車解体の進行が早かった。中古車市場からも早々に姿を消し、現存台数は少ない。


本田宗一郎の拘りと躓き編集

実はこの車、1970年代の乗用車としては既に珍しかった空冷エンジンを搭載していた。理由は空冷エンジンを推す社長・本田宗一郎の拘りと、N360の実績からである。その一方でホンダの技術者たちは、F1マシン・RA302の経験などから、「水冷の方がエンジンの各部の温度を制御しやすい」と提案していた(この考えは正しく、後に自動車用の空冷エンジンは絶滅している)。だが、宗一郎は「エンジン水で冷やしても、その水も空気で冷やすものだから、最初から空気でエンジン冷やした方が早い」※と取り合わなかった。この対立により、後にホンダ社長となる久米是志は辞表を提出したうえ出社拒否、挙げ句の果てに四国に旅立ってしまった。だが1か月ほど後、上司の河島喜好に連れ戻された。なお、久米の不在中に後輩エンジニア・川本信彦が中心となってエンジンの改良を進めた。ちなみに久米はRA302のエンジン開発でも、水冷エンジンで作れなかった事に嫌気が差した結果、やはり辞表を提出、出社拒否して自宅警備員状態になった事があった。さらに河島と川本も、後にホンダの社長になっている。


熱々の鉄板を扇風機で直接冷ますのと、その鉄板にかけた水を冷ますくらいの違い


また、宗一郎が空冷エンジンに固執した事に関しては、F1チーム監督を務めた中村良夫もかなり辟易しており、後に自ら書いた『ひとりぼっちの風雲児』の中で宗一郎を「人間としては尊敬できるが技術者としては尊敬できない」と批判している。中村は宗一郎の理化学的における無理解、宗一郎の決定に従わなければならない状況に嫌気が差し、辞めることを考えたが、「宗一郎をもうすぐ引退させるから」という河島らの説得によりとどまる。ただし宗一郎が社長を辞職するまではロンドンに駐在していた。理由は宗一郎と顔を合わせたくなかったためだった。


こんな軋轢を生んでしまってでも生まれた1300シリーズのエンジンは、排熱処理の為に「DDAC」と呼ばれる非常に凝った構造を採用。空冷のイメージとは裏腹にエンジンは大きく、オイルの循環はドライサンプでオイルタンクにまで冷却フィンが付いていた。結果、「簡素で軽量で安価」という一般的な空冷エンジンのメリットを全て台無しにし、設計の合理性を完全無視した代物となってしまった。


その様な事から、技術者達はホンダ副社長の藤沢武夫に宗一郎を説得させるよう頼み、藤沢は「あんたは社長なのか、技術者なのか、どちらなんだ?」と宗一郎を問いただし、折れた宗一郎は水冷エンジンにゴーサインを出すことになった。こうして生まれたのが、初代ライフ、そして初代シビックであった。

このことが直接のきっかけとなって藤沢は経営者引退を決断し、宗一郎もその意を汲んで同時に第一線から退くことになった。


もっとも、空冷エンジン自体は軽トラックTNシリーズ用として1977年まで残った。そして、これが日本の自動車最後の空冷エンジン搭載車となった。


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