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本田宗一郎

ほんだそういちろう

本田技研工業の創業者(1906年(明治39年)11月17日 - 1991年(平成3年)8 月5日)。
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概要編集

浜松市出身のエンジニアで、本田技研工業(ホンダ)の創設者。ホンダでは部下たちから「オヤジさん」と呼ばれ、「技術者の神」などの二つ名もある。


1949年以降は専務(のち副社長)の藤沢武夫に会社経営の全権を委ね、自らは技術開発に専念していた。


来歴編集

1906年浜松市にて鍛冶屋の長男に産まれる。幼い頃より自動車自転車に特別な興味を持っており、その道の仕事に就くことを夢見ていた。


15歳の時に東京の自動車修理工場アート商会に丁稚奉公することを決意。厳しい労働環境であったがめきめきと腕を上げた。当時は自動車工業黎明期であったため、修理工場が請け負う仕事の内容は溶接旋盤鋳造など幅が広く、これら総合的な知識が後の本田技研工業にも活かされることとなった。


弱冠21歳にしてアート商会から唯一暖簾分けを託され、故郷浜松市にて支店を構え独立。従業員をスパルタ教育でしごきながら、新型タイヤホイールの開発や改造車の製造などを手がけた。知人と共同で東海精機重工業(現東海精機)を設立し、レシプロエンジンの精密部品であるピストンリングの製造に取りかかるが、学問的知識に疎かったため暗礁に乗り上げた。このため宗一郎は浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)の補講生徒となって金属工学を学び取り、苦労の果てにピストンリングの開発に成功。自動車修理工場は弟子に譲り、自身は東海精機の仕事に専念するようになった。第2次大戦中も苦労を重ねながら会社を維持してきたが、終戦後に起きた三河地震によって東海精機の工場が焼失してしまった。この後、宗一郎は東海精機の全株をスポンサーであった豊田自動織機に売って退社。


休業の後に町工場である本田技術研究所を設立し、軍倉庫に保管されていたエンジンを自転車に取り付けた簡易オートバイ”バタバタ”を製造しヒットを放った。2年後に本田技研工業株式会社を設立し、本格的な二輪車の開発に乗り出したものの、経営は苦境に陥り倒産の危機に瀕していた。


そんな最中、1949年に宗一郎の生涯の相棒となる辣腕経営者・藤沢武夫が入社。宗一郎は研究開発に専念し、ホンダは一気に成長を遂げた。1958年、宗一郎の会心作として世に送り出したスーパーカブにより、二輪メーカーとして確固たる地位を築いた。当時の日本全国の二輪車販売台数は月2万台程度であったが、スーパーカブの大ヒットを確信した藤沢は大胆な設備投資を行い、1960年には月産3万台体制を確立。日本のオートバイ市場そのものが一挙に押し広げられることになった。1959年にはマン島TTレースに出場、1961年に初優勝し、世界にホンダの名を響き渡らせた。


1963年には軽トラックT360/T500で四輪市場に進出。大ヒット軽自動車N360や、低公害エンジンCVCCを搭載したシビックを世に送り出し、四輪メーカーとしても躍進した。


1973年、副社長退任を決断した藤沢の意を汲んで67歳で社長を潔く引退。一番弟子であった河島喜好に社長職をバトンタッチした。


1989年、日本人としては初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂入り。この際、藤沢の位牌に受賞したメダルを架け「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ。」と語りかけたという。1991年、ビートの発売を見届け、84歳で永眠した。


人物編集

短気で直情的な性格であった。「プロジェクトX」では、感動ストーリーとして描かれているが、カッとなると部下を工具で殴りつけるような親父で、現在であれば暴力・パワハラで問題になってもおかしくはない。とはいえ、多くの人が「おやっさん」と呼び敬愛していることからも好人物であったことが窺える。 昭和初期の技術屋は大概このような拳骨指導をしていたため、別に珍しくもなかった。


一方で、会社と従業員を守るために官僚と徹底的に戦ったことで有名である。自動車産業の保護を名目に大手メーカー以外の新規自動車産業進出を規制する「特定産業振興臨時措置法案」に対しては断固反対の姿勢をとり続けた。また、戦前の風潮を引きずり、滅私奉公を礼賛する日本の企業体質に異を唱え、あくまでも社員の幸福のために会社はあるべきだと常に主張し続けた。


技術者としての宗一郎編集

系統だった技術教育を十分に受けておらず(浜松高工の聴講生として金属工学を3年間学んだだけ)、基本的には叩き上げの職人である。エンジンの全体像を構築する構想力と車の問題点を見抜く眼力には定評があったが、理工学的な知識が不十分であった。F1の現場で激しく対立した監督の中村良夫は、このような宗一郎の姿勢を「人としては尊敬出来るが技術者としては尊敬出来ない」「フォースとパワーの違いもわからない」「基本的な熱力学の物理法則を理解していない」と評した。


技術者としての晩年には、エンジンの空冷が時代に合わなくなってからも空冷に固執したことで知られる。理由は「水冷と言えど結局は(ラジエーターから)空気で冷やすんだから軽量でシンプルな空冷の方がいい」からであったが、その結果として誕生したホンダ・1300は、過度に凝ったメカニズムにより軽量でシンプルという本来の空冷のメリットが全く生かされない結果となった。


また現場がF1初勝利を挙げた水冷エンジン車の熟成に勤しんでいる最中に、宗一郎が無理やり空冷エンジン車を日本から送りつけたことが、後のジョー・シュレッサーの死亡事故の遠因になったとも指摘されている。


1973年、「脱・宗一郎」を合言葉に水冷エンジン(CVCC)搭載車として発売されたシビックが大成功したことで、宗一郎は自らの技術者としての限界を認め、引退を決意する。


一方で先見の明があったと言える部分もあった。

宗一郎は2ストロークエンジンを好まず、4ストロークエンジンにこだわった。「2ストみたいなウルサイのはダメだ、モクモクと白煙を出しながら走るのはダメだ」というのが持論であった。


2ストロークエンジンは騒音振動が大きく燃費も悪く高回転が伸びないが、小排気量でもトルクが大きくパワーが出る。「小排気量エンジンの実用バイクは2ストロークでなければならない」というのが世間の常識であった。ところが1958年に登場したスーパーカブは、「日常使いの小さなバイクこそ4ストでなければ」という宗一郎の考えから、50ccとしては前代未聞の4ストロークエンジンを搭載していた。ホンダ初の量産乗用車として1967年に登場した軽自動車N360は、高回転で出力を稼ぐ特性により、4ストでありながら2ストのお株を奪う突出したハイパワーを示し、世間を騒がせた。


環境規制が強化された1970年代に入ると、世界的に4ストへの移行が進む。2ストの騒音と振動の大きさも嫌われ、1980年代以降の西側先進国では、新規開発される四輪車用エンジンは4ストばかりになった。二輪車ではしばらく2ストが残り、宗一郎引退後のホンダも他社との対抗上NS400Rのような2ストモデルを出しているが、21世紀に入るころにはバイクでも2ストはほぼ駆逐されてしまった。


また、N360を皮切りに前輪駆動車を優先的に開発したことも挙げられる。これは「MM思想」(マンマキシム・メカミニマム、人のためのスペースは最大に、機械のためのスペースは最小に)という考え方に基づくものである。


経営者としての宗一郎編集

会社経営者としては、技術者として以上に異彩を放っている。ホンダ経営の全権を藤沢武夫に一任していた(藤沢は1949年に入社してまもなく宗一郎から社長の実印を渡されたほどである)ことから、藤沢の領分である販売営業部門に立ち入ることはなかったが、下記の考えは現在のホンダにも息づいているという。


宗一郎と藤沢は会社組織の序列というものを何よりも嫌っており、階級に関係なく意見を言い合える環境を作ることを心がけていた。同じ理由で世襲同族経営を否定しており、実際に現在に至るまで本田・藤沢の両家の人物が要職に就いたことは無く、歴代社長も叩き上げの技術者が任命されている。関連会社の「無限」は宗一郎の長男が設立したが、本社との資本提携は無い。


また、宗一郎も藤沢も社員の主体性を何よりも尊重し、社宅なども「社員を会社に縛り付ける悪習」として一切作らせようとしなかった。愛社精神を強要する当時の風潮も忌み嫌っており、宗一郎は「会社は自分たちがやりたいことをするために活用する道具だと思え」といった旨を社員に公言していたほどである。


その他編集

現代で、ホンダのF1撤退の報道がある度に「親父さん(宗一郎のこと)が天国で泣いているぞ!」という論調の批判が見られるが、実はホンダF1第一期の撤退、及びWGP第一期の撤退は宗一郎が社長の時に行われている


関連項目編集

本田技研工業

井深大 - ソニー創業者の一人で、親交が深かった。

松下幸之助 トーマス・エジソン - 高等教育を受けていない技術者・経営者という共通点がある。

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