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概要

日本の大手電機メーカーSONY(ソニー)の創業者の一人。

1908年生まれで、栃木県出身。

早稲田大学の学生時代から光通信の実験を成功させるなど発明家として名を馳せており、在学中には他にも「走るネオン」を発明している。

東京電気(現:東芝)の入社試験を受けるも世界恐慌の影響で不採用となってしまい、卒業後は植村泰二が社長を務める写真化学研究所(後の東宝)に入社。前述の「走るネオン」をこの会社で製品化し、パリ万国博覧会で金賞を受賞する。

その後、同じく植村が社長を務める日本光音工業に移籍。日本光音工業の出資の下で軍需電子機器の開発を行う日本測定器株式会社を設立し、常務に就任。ここでも植村が社長を務めた。

1944年に工場長野県に疎開させ、疎開先の工場で当時大日本帝国海軍技術中尉だった盛田昭夫と知り合う。13歳年上の井深に盛田は兄事していた。

終戦後の1945年10月に、東京都日本橋で個人事業「東京通信研究所」を創業。

翌1946年に盛田昭夫が合流し「東京通信工業株式会社」に改組。井深は専務に、盛田は常務に就任した。

1950年に東京通信工業の2代目社長に就任。日本初のテープレコーダーやトランジスタラジオを世に送り出し、ブランド名をSONYに決定。

1958年に社名をソニー株式会社に変更した。

井深率いる技術陣は1961年に世界初のトランジスタ式VTR「SV-201」を開発。1968年に全く新しいシステムのカラーテレビ「トリニトロン」を発売。その後も革新的な商品を多数生み出していった。

1971年に社長の座を盛田昭夫に譲り、ソニーの初代会長に就任。

1976年に会長職も盛田に譲り、名誉会長になった。

トライ・アンド・エラーを繰り返すことが経験・蓄積になる」を持論としており、挑戦と失敗を繰り返すことで独自のノウハウを築いてきた。東京通信工業の創業時に井深が起草した設立趣意書は「自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」を謳っていた。同時に「人のやらないことをやる」「技術上の困難はむしろ歓迎」といった方針を掲げていた。東芝を特集した評論家が「ソニーはモルモット」と失言した際にも井深はソニーの役割がモルモットであることを誇りに思うような発言をしており、「ソニーは開拓者」という精神を忘れなかった。

井深・盛田両氏が唱えたソニースピリットは、ソニーの社是の筆頭に掲げられた。

また、児童教育や障害者支援等、社会福祉への貢献も積極的に行っていた。

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