概要
FIM(国際モーターサイクリズム連盟)が管轄する、オートバイにおける世界最高峰のレースである。
マシンの排気量によって何クラスかに分かれているが、一般的に"MotoGP"というと最高峰クラス(MotoGPクラス)のみを指す。
四輪レースのF1と並び称されており、例えば業界の最高人気競技・最高峰である点や、市販車を一切由来としないシャシーを用いる点などの共通点が多い。しかしF1は一国一開催の原則があるが、MotoGPは人気の偏りっぷりゆえスペインとイタリアの開催が異常に多い(2019年のスペイン開催は4回もある)というのは大きな相違点である。
日本でも今はツインリンクもてぎ、過去には鈴鹿などで開催されている。
マシンについて
排気量別にクラス分けがされている。
現在では排気量1,000ccの最高峰クラスであるMotoGPクラス、排気量765cc(2018年までは600cc)は統一しつつシャシーの開発を各チームで行えるMoto2クラス、排気量250ccで若手ライダーおよびチームの育成を目的としたエントリークラスであるMoto3クラスの3クラスに分かれている。
かつては排気量がクラス名になっており、最高峰の500ccクラスの他、350cc、250cc、125cc、80cc、50ccまで存在した。またサイドカーレースもこの選手権に含まれていた時期がある。
この内350ccは1982年を最後に廃止され、50ccは1984年に80ccへと変更されたのち1989年を最後に廃止された。
その後2001年に500ccがMotoGPに改編され、250ccは2010年にMoto2、125ccは2012年にMoto3へと改編されて現在に至っている。、
いずれのクラスも灯火類の装備されていない、公道走行が可能な市販モデルとは一切関係のないサーキット専用設計なのが最大の特徴である。各チーム開発またはメーカーやフレームビルダーが開発し販売しているマシンを購入して、レギュレーションの範囲内で改良を施して参戦する。
かつてエンジンは2ストロークと4ストロークが混在していたが、レギュレーション上の調整が今ひとつであったため、殆どのチームが圧倒的にパワーのある2ストロークを採用した。ただしパワーバンドが極端に狭く、ある一定の回転数から急激にパワーが上がる(レーシングエンジンと言うことを考慮しても)扱い辛いエンジンで、車重130kg、馬力は推定で200馬力以上出るという危険極まりない代物であった。尤もそうした危険さと2ストロークの官能的なサウンドも相まって、2ストロークだからこそWGPがエキサイティングなのだと考えるファンも大勢いた(他の市販車ベースの2輪レースは4ストロークが中心であった)。
その後21世紀に入ると各メーカーの市販車は年々厳しくなる排気ガス規制をクリアするために4ストロークが必須となったため、販促上不利な2ストロークは敬遠されるようになり、それに合わせて規則も改定された。「WGPの500ccクラス→MotoGPクラス」への改名も、同クラスが4ストロークの最大排気量を990ccに設定したためである。
この改編が実施された初年度は2ストローク500ccとの混走が認められており、実際各メーカーもエース級のライダーとワークスチームでのみ4ストロークのMotoGPマシンで参戦し、いわゆるサテライトチームには既存の500ccマシンを供給する体制を取った。「理論上、同じ排気量ならば2ストロークは4ストロークの2倍の出力が得られる」ことや、気筒数当たりの最低重量なども500ccに有利となる(500ccの方が軽い)レギュレーションとされたことから、様々な新機軸を取り入れたものの未知数なMotoGPと熟成が進み今までの経験が活かせる500ccとの実力は伯仲するのではと見られていたが、いざシーズンが始まるとMotoGPマシンが500ccマシンを圧倒する結果となった。結果各メーカーは早々に2ストローク500ccに見切りをつけてMotoGPの開発に集中するようになり、500ccは2003年を最後に姿を消すこととなった。(現在、2ストロークでの参戦は明確に禁止されている。)
この結果、日本のカワサキやイタリアのドゥカティなど、4ストロークを得意としていたメーカーの新規参入を呼び込むこととなり、2003年から2009年まで日本の4メーカー(ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキ)が揃い踏みするなどの活況を呈するようになった。
その後は下位クラスにおいても上述のように4ストローク化が進むこととなり、2011年の125ccクラス廃止を最後に2ストロークはMotoGPから姿を消した。
現在のMotoGPクラスのマシンは、電子制御化が格段に進んでおり、なおかつタイヤやブレーキ、サスペンションなどの性能も大幅に向上したことから、ひと昔前のマシンより格段に安全性が上がっているものの、外殻に覆われていない状態の人間が350km/h以上の速さで突っ走る乗り物に跨るという本質には何ら変わりないため、クレイジーでエキサイティングなのは今も昔も同じである。
また、近年ではF1並みのエアロダイナミクス化が進んでおり、各メーカーとも様々なエアロパーツを組み込んだマシンを開発している。比較的早い段階からこの空力効果に目を付けていたドゥカティが他メーカーに対し大きなアドバンテージを持っており、それがここ数年のドゥカティ無双状態に繋がっている。
なお、最高速度で走るとハンドルが左右に振られはじめ、時間の経過とともに振動が激しくなる「ウォブル」という現象が発生するが、どうにかして押さえつけて走るのだという。
日本勢の活躍
F1とMotoGPは似ていると概要で述べたが、F1しか知らない者がMotoGPを見ると、日本車メーカー無双状態であることに驚愕するだろう。その無双っぷりは1975年に初めてYAMAHAが最高峰クラスのライダースチャンピオンを獲得して以降、2007・2020年を除く全ての年でHONDA・YAMAHA・SUZUKIしかチャンピオンマシンになったことがないほどである。
しかし、2022年以降は世界的なコロナウイルス感染拡大の影響などで日本メーカーの開発と対応が後手に回る一方、ドゥカティを始めとする欧州メーカー勢が主に空力パーツの拡充を軸にして急速に力を付け、日本メーカーは優勝や表彰台はおろかトップ10以内の入賞すらままならない苦闘を強いられている。
2024年現在はHONDAとYAMAHAがファクトリー体制で参戦しており、SUZUKIは2022年を最後に完全撤退を表明した。
HONDA
伝説の男・本田宗一郎の指示で1954年、いち早く1959年から参戦を開始。1961年に日本メーカーとして初めてクラス(125cc)チャンピオンに輝くと破竹の勢いが始まり、1966年にはコンストラクターズタイトルで全クラス(500・350・250・125・50cc)制覇という快挙を達成している。またライダースでも350cc・250cc・125ccを連覇し続けた。しかし1968年に技術的衰退を含んだ規則変更への反発を理由に、一度は撤退する。
1979年に活動を再開。2ストローク全盛だった当時でも敢えて宗一郎がこだわった4ストロークエンジン搭載のマシン(NR500)で参戦するが、1981年までの3年間でただの一度もポイント圏内で入賞することすら出来ないという屈辱を味わった。しかし、この間に得た様々な知見や経験を元にして1982年に2ストロークV型3気筒エンジン搭載のNS500を投入。これが奏功し、1983年に復帰後初となる500ccチャンピオンを獲得した。翌1984年には後継となるV型4気筒エンジン搭載のNSR500を開発。NSRは1985年に初のタイトルを獲得すると、以降はほぼ毎年タイトル争いに絡む活躍を見せ、2002年のMotoGP改編を経て現在に至るまでの40年近く、一部を除きほぼYAMAHAとライダース・コンストラクターズタイトルを分け合っていく黄金時代を築いていった。2020年には全クラスを併せて通算800勝という前人未到の記録を達成。最高クラス24回のタイトルも全メーカー中ブッチギリの1位である。
また、NSRの投入により型落ちとなったNSのパーツを若干ダウングレードしたものを「RS500」という名称で販売した。販売価格は500万を超え、同様の市販レーサーであるヤマハTZ500やスズキRGB500の300万程度と比べると割高ではあったが、ライダーの技量やセッティング次第では本家のNSやV4エンジン搭載のワークスマシンをも凌ぐ走りを見せることもあり、多くのプライベーターが90年代まで愛用した。NSRも、90年代後半にVツイン(V型2気筒)にしたものを市販化しており、こちらはNSR500V(販売価格は800万以上)と呼ばれていた。
MotoGPには改編初年度の2002年から2006年まではV型5気筒エンジン搭載のRC211V、最大排気量が800ccに変更された2007年から2011年まではV型4気筒エンジン搭載のRC212V、1000ccに引き上げられた2012年から現在までは同じくV型4気筒エンジン搭載のRC213Vで参戦している。
しかしながらここ数年は上述の通り欧州メーカー勢の台頭の前に苦戦を強いられ続けており、レースでの勝利も2021年を最後に3年間遠ざかっている状況が続いている。頑張れ、ホンダ。
また下位クラスでも多くの勝利とタイトルを重ねており、250ccではYAMAHAや欧州メーカーのアプリリアなどと毎年激しくタイトル争いを展開。クラスの最終年となった2009年もタイトルを獲得して有終の美を飾り、Moto2に改変されてからは初年度の2010年から2018年までエンジンサプライヤーとして600ccエンジンの供給を行った。125ccでもアプリリアやKTMなどの欧州メーカーとタイトル争いを繰り広げ、Moto3に改編された現在でもマシン開発と供給を続けている。
250ccでもワークスマシンは「NSR250」と呼ばれ、ワークス系のサテライトチームに供給する一方、並行して「RS250」という市販マシンも開発・販売していた。しかしながら両者の違いはわずかなもの(NSRの方がわずかに手作りのワンオフパーツが多い程度)で、80年代後半ではNSRとRSで上位をほぼ独占してしまうレースも多かった。NSR250の開発は2002年を最後に終了し、以降はRS250にホンダが開発したチューニングパーツを組み込む形での参戦となった。
125ccではRS125という名の市販レーサーを販売し、これを購入した各チームがチューニングする形での参戦形式だった。現行のMoto3でも「NSF250」という名称の市販レーサーを販売しているが、実際は供給するチーム個別に専用のマシンを製造・供給している。
YAMAHA
1961年にデビュー。1964年に初めて250ccクラスでダブルタイトルを獲得。以降125ccと250ccを幾度も制覇した。1969年にはHONDA・SUZUKIに一年遅れて活動を休止。
1973年にワークス復帰し、1974年に最高クラスのコンストラクターズ、1975年には日本メーカーとして初めてライダースタイトルを獲得している。翌1976年以降から1982年まではSUZUKIと、1983年からはほぼ毎年HONDAと激しくタイトル争いを展開。2024年現在で最高峰クラス13回を含む36回のタイトルを獲得しており、これはHONDAとMVアグスタに次ぐ歴代3位の成績である。
最高峰クラスで投入しているマシンは参戦初年度からは並列4気筒、1981年と1982年は直列2気筒を縦に並べたスクエア4気筒、1982年途中から最終年度の2001年まではV型4気筒とエンジン形式が幾度となく変更されているが、一貫して「YZR500」という名称が与えられていた。
MotoGPに改編されてからは「YZR-M1」という名称が与えられており、レギュレーションに合わせた排気量の増減こそあれ一貫して並列4気筒のエンジンレイアウトが採用されている。
2021年にライダーチャンピオンを獲得したが、これが現在のところ最高峰クラスで日本メーカーが獲得した最後のタイトルとなっており、欧州メーカーの前に苦戦を続けている状況はHONDAと同様である。頑張れ、ヤマハ。
下位クラスにおいても、250ccでYZR250というワークスマシンを投入し、HONDAほどではないにせよ数多くの勝利を挙げた。90年代まではタイトル争いにも絡んでいたが、2003年を最後にMotoGPのみに注力するようになり、Moto2とMoto3にも創設時から現在に至るまで参戦していない。
市販レーサーも各排気量別に生産・販売を実施し、排気量の関係なく「TZ」の名称が与えられていた(TZの後に排気量の数字が付く)。
70年代は多くのプライベーターに愛用される一方、ヨーロッパの現地法人が独自に開発した車両もあり、77年に350ccで日本人初のライダーチャンピオンになった片山敬済も、オランダの現地法人が開発したTZ350でチャンピオンになった。
しかしTZ500は基本設計が車体も含め70年代初頭のままで、80年代以降は急速に戦闘力を失い姿を消した。
TZ250はYZR250が開発を終了したあとも販売が続けられ、YZR250が投入されないシーズンは「TZ250M」という名称でワークス系チームに貸与されるなど、事実上のワークスマシン扱いされることもあった。
TZ125は70年代に投入されたあとは80年代以降生産されず、90年代に入り最生産されたがライバルのホンダRSほどの活躍を見せることはなく、MotoGPが開始される頃からTZは徐々に姿を消すこととなった。
SUZUKI
同業者である本田宗一郎の勧めで1960年から参戦。1962年に創設された50ccでタイトルを獲得し、以降125ccなどの小排気量クラスでタイトル常連となる。1968年にはHONDAとともに技術規則の変更に反発して撤退しているが、プライベーターへの市販マシンの供給は続けられた。
1975年にワークス復帰。この時強力なライバルが少ない影響もあったが、1976~1982年までコンストラクターズを7連覇した。これは現在に至るまでHONDAでも追い付けていない(6連覇止まり)偉業である。しかし以降はHONDA・YAMAHAの一騎打ちに割って入ることは難しく、GPでの優勝こそほぼ毎年果しているが、その後のタイトルは1993・2000年・2020年の3度のみとなっている。とは言えハマった時の速さは素晴らしく、HONDAとYAMAHAが揃って苦境に陥っていた2022年でも欧州勢を相手に2勝を上げている。
また1984〜1986年、2012〜2014年と2度の休止期間を挟んでおり、2022年には脱炭素化などの技術開発に注力することを理由にMotoGPからの完全撤退を発表した。スズキ、早く帰ってきておくれ。
投入マシンは復帰初年度の75年から83年までスクエア4気筒搭載のマシンで参戦しており、「RG」という名称が与えられていた。仕様の変更にともなって「RGA」「RGB」と名称が変わり、最終モデルは「RGΓ(ガンマ)」という名称だった。
また、これらRGシリーズは70年代後半から80年代初頭にかけて市販レーサーとして売り出され、比較的入手がしやすかったことから80年代末頃まで多くのプライベーターが使用していた。
87年以降はライバルと同様にV型4気筒を採用し、こちらは「RGV-Γ」と呼ばれていた。
MotoGPには2011年までV型4気筒のGSV-Rで参戦、休止期間明けの2015年から2022年までは並列4気筒のGSX-RRで参戦していた。
下位クラスでは、1992年から1993年にかけてRGV‐Γ250と言うマシンで250ccに参戦したが目ぼしい成績を上げることは出来ず短気間で撤退。以降はMoto2/Moto3共に参戦していない。
KAWASAKI
4大メーカー中最後発で、1966年が初参戦。1969年に125ccクラスのチャンピオンを獲得している。また同時期から1970年代前半までYAMAHA・SUZUKIらとともに500ccクラスの市販レーサーも発売しており、プライベーターから支持を集めた。市販レーサーのみでありながらメーカーランキングも71年・72年と2年連続してランキング3位となっている。
1977年には北米で実績を重ねた250ccマシンと、それをベースに開発した350ccマシンで両クラスにワークス復帰し、1978~1982年まで絶対王者として350・250cc両クラスを支配した。この時のマシンは「KR(名称の後に排気量を示す数字が付く)」と呼称され、82年までに両クラスで73勝を挙げる活躍を見せた。
更に1980年にはKR250/350で培った技術を元に、一般的なパイプフレームではなくモノコックフレームを採用して軽量化を目指した意欲作の「KR500」で最高クラスにステップアップした。しかし82年までに3位を2回獲得するに留まり、82年を最後に350ccの廃止が決定すると未練なく全クラスからの撤退を表明。1982年を持ってKAWASAKIの名はWGPから姿を消した。
しかし2002年より500ccクラスがMotoGPに改編されることが決定すると、実に20年ぶりとなる最高峰クラスへの復帰を宣言。「ニンジャZX-RR」と呼ばれるマシンで参戦したが、カワサキはスーパーバイク世界選手権など市販車をベースをしたレース車両の開発は得意としていた一方、MotoGPのような純粋な競技専用車両の開発そのものも20年ぶりのこととなり、実績を重ねていた他の国内3メーカーはもとより、ドゥカティやアプリリアといった欧州メーカーとの差も隔絶していて、そのギャップを埋めるのは容易ではなかった。結局2位表彰台を4回獲得したのみで1勝も挙げられないまま、2008年にリーマンショックを理由に撤退を表明(但し2009年はマシン供給のみ実施)。1975年の市販マシンによる勝利が、KAWASAKI車最後の最高クラスでの勝利となっている。カワサキ、逃げるな。
しかしタダでは転ばないのがKAWASAKIであり、2013年からスーパーバイク世界選手権で前人未到の6連覇という成功を収めているが、これにはマシン供給のみに留めた2009年型ZX-RRの技術が応用され、MotoGPのマシン開発で得た知見と技術がスーパーバイク世界選手権での躍進に繋がることとなった。
日本人ライダー
乗り手としては無双とまではいかないが、1961年の西ドイツGP(当時)で高橋国光が日本人として初の優勝を成し遂げたのを皮切りに、多くの優勝者やチャンピオンを輩出しており、その活躍ぶりはF1以上であると言える。最高峰クラスでのチャンピオンはまだ誕生していないが、金谷秀夫、片山敬済、宇川徹、玉田誠、阿部典史(ノリック)がGPでの優勝を挙げている。
またクラスチャンピオンは片山敬済、原田哲也、加藤大治郎、青木治親、坂田和人、青山博一らがいる。クラス優勝を達成した者や一度でも表彰台を獲得した者まで含めると、多すぎて枚挙にいとまが無い程で、2000年の日本GPでは日本人が3クラスで優勝しただけでなく、表彰台に上がった9人中8人が日本人という快挙すらも達成している。
2024年はMTヘルメット-MSIチーム(ボスコスクーロ)に所属しMoto2クラスに参戦している小椋藍が見事ライダースタイトルを獲得し、2009年に250ccでチャンピオンを獲得した青山博一以来、15年ぶりとなる日本人王者の誕生となった。世界を相手に戦い頂点を極めた日本人アスリートはメジャーリーガーだけではないのだ。
彼ら日本人ライダーの知名度と人気は欧州(特に南欧)で日本では想像も付かないほど高いものがあるが、逆に日本国内では悲しいほど知られていないのが実情である。
(上記の小椋の快挙を伝えた地上波メディアはごくわずかで、同時期に開催されていたMLBワールドシリーズとの格差は言わずもがなである。)
2001年には、シーズンを終えて帰国した加藤大治郎と、日本代表との親善試合を終えて帰国するサッカーイタリア代表が成田空港で鉢合わせした際、大治郎の大ファンだったスター選手のアレッサンドロ・デル・ピエロが大興奮して大治郎にサインを求め、これに大治郎が快く応えたシーンを見た日本人記者達が驚愕し「あの日本人の若者は誰だ?」と大騒ぎになったという。
(大治郎はこのシーズンでキャリア初となる250ccのチャンピオンを獲得している。)
このエピソードは、日本におけるモータースポーツ(特に二輪)に対する知名度の低さと無理解を象徴するものとしてしばしば引用されている。
別名・表記ゆれ
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