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源田実の編集履歴

2019-08-10 22:53:41 バージョン

源田実

げんだみのる

帝国海軍大佐 1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日 満84歳没 

人物像

帝国海軍大佐 1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日 満84歳没 戦後は航空自衛官、政治家となった。 真珠湾攻撃や343航空隊で有名な軍人。

源田サーカス

戦前は、戦闘機パイロットとしてアクロバット飛行で日本中を沸かせた。人呼んで源田サーカス。赤松貞明、樫村寛一など後のエースたちが所属していた戦闘機パイロットの名門的存在だった。後に航空幕僚長になってからはその経験からブルーインパルスを打ち出している。単葉機の開発や急降下爆撃の研究などパイロットとしての研究は幅広く、海軍の航空政策に貢献している。小型の単座急降下爆撃機を主張して、大型を主張する戦闘機無用論とは対立しているが、爆撃重視ということで源田も戦闘機無用論者と見なされることがある。パイロットから身を引いてからは参謀になったが、制空隊を考案して実戦で戦闘機の新たな価値を証明するなど、航空戦略の歴史に大きな影響を与えている。同じ世代には、日本初の敵機撃墜に成功した生田乃木次がいるが、それ以外は源田のように戦争の機会がないまま30歳を過ぎてしまい、戦闘機パイロットとして実戦に参加することはなかった。そのかわり参謀としては前線で豊富な実戦経験を積むことになる。


源田艦隊

源田は1941年の真珠湾攻撃を立案したことで世界的に有名な参謀である。海軍兵学校の同級生であり親友の淵田美津雄を攻撃隊の総隊長に迎えて、成功に向けて空母機動部隊の第一航空艦隊は猛特訓した。源田の意見の多くが採用され、第一航空艦隊は別名源田艦隊と呼ばれた。この真珠湾攻撃の参加者たちは、後に真珠湾の精鋭と呼ばれるまでになった。


海軍航空隊は翌年1月のラバウル・カビエン攻略支援、2月のボートダーウィン攻撃、3月のジャワ海掃討戦、4月のインド洋作戦と連戦連勝を重ねた。しかし、その陰で連戦の疲労が精鋭パイロットたちをむしばんでいた。海軍の司令たちには「向かうところ敵なし」という慢心が充満するようになり、源田は同期の淵田に「自分の立案した作戦が何のチェックも受けないのが怖い。上に山口多聞少将や大西滝治郎少将がいれば、あらゆる角度から突き返して来るので、こちらも自由奔放な作戦案が出せる」と零している。はたして、連合艦隊司令部が立案したミッドウェー作戦が「手を伸ばし過ぎである。戦力の充実を待つべきだ」とする源田と山口の反対を無視して決行されてしまい、海軍機動部隊は壊滅してしまう。作戦中に攻撃隊を発進させるべき場面で、着艦を待つ戦友を見殺しにできずに、源田が着艦優先を上申したことも敗因の一つであり、「心を鬼にして見殺しにすれば相打ちくらいにはできた」と反省した。


その後は軍令部で、第一航空艦隊の再建、T攻撃部隊の考案などしているが、どちらも錬成中に前線投入され、はかばかしい戦果は上がらなかった。ちなみに台湾沖航空戦で投入されたT攻撃部隊は福留繁長官の意向でT攻撃ではなく、夜間攻撃に使われて壊滅している。軍令部に着任すると零戦、銀河などの防弾強化を行ったが、その重量による性能低下との板挟みにあっている。


航空本部から桜花の提案があり、軍令部で検討が重ねられたが、その危険性から実行には踏み切らなかった。この時期に神風特攻隊も始まったが、軍令部がその指導を始めたのは1945年2月の第五航空艦隊の編成からであり、源田は最後まで特攻を命じることはなかった。ちなみに源田が起案を担当した電報が、特攻開始前に中央で用意され神風攻撃隊の名前もあるので、これを特攻の指示とする主張があるが、内容は発表の相談のみであり、特攻の事後に送信されているので時系列が逆である。

343航空隊

1945年1月、343航空隊、通称剣部隊の司令に着任。源田の構想で編成された紫電改を駆使した制空部隊である。編隊戦闘、情報戦に力を入れて訓練し、当時の厳しい戦局で無類の強さを誇り、交戦した米戦闘機隊の報告には「かつて経験したことのない恐るべき反撃を受けた」とその衝撃が語られている。

源田は部下たちからオヤジと呼ばれて敬愛されており、反骨者の菅野直でさえ心服していた。源田も士官、下士官を問わずにかわいがっている。

軍令部から343空に特攻の命令がきたときには、志賀淑雄少佐の「私が最初に行きます。源田司令は最後に行ってください。ただし、命令してきた軍令部の参謀は最初に連れて行きましょう」という言葉に源田は「全くだ!」と同意して上に抗議したが、軍令部からはその返事が来なかった。原爆搭載機に対する空中特攻にも自分を一番機と決めて、最後まで一人の特攻も出さずに終戦を迎えた。志賀は源田を最高の飛行機乗りで戦術家だったと絶賛し、他の部下からも「作戦指導は神業だった」「常に科学的で合理的だった」など評価は高い。


戦後

戦後は防衛庁に入庁、航空幕僚監部装備部長を経て航空幕僚長になり、後の航空自衛隊に大きな影響を残している。50歳を過ぎてジェット戦闘機に乗り、ブルーインパルスの生みの親として知られる。


1962年、航空自衛隊を退官し参議院議員になったが、尊皇や国防力強化を堂々と唱えたので、反保守勢力からのネガティブキャンペーンは数知れない。その一つに本土空襲の首謀者であるカーチス・ルメイ大将の叙勲に関わっていたというものがあるが、防衛庁の判断に基づく佐藤栄作内閣の決定であり、源田は関わっていない。


旧海軍・自衛隊関係者からの支持は絶大で、昔の部下や同僚にも支えられて4期連続で当選した。


1986年、初当選から24年を機に引退。旧海軍勤務が24年だったことから「これ以上やれば海軍に義理がたたない」という理由からだった。最後は343空のあった松山で、終戦記念日に人生の幕を閉じた。


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辻政信 - 戦後参議院議員になった陸軍軍人。

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