朱熹
しゅき
西暦1130年~同1200年 中国の学者。徽州婺源(江西省婺源県)の人。諱を熹、晦庵・仲晦などと字した。新しい儒学「朱子学」を作り上げた。
概要
中国、宋代(南宋)の人。9歳の時に『孟子』を読み、病床の父から『論語』を教わった。
紹興18年(西暦1148年)に19歳で進士に挙げられ、同安県(福建省)主簿となったが4年で退職し、研究生活を送った。政治にも関わったが、朝廷内の人事などに巻き込まれ、最後はすべての官職を剥奪される。
また偽学と誹謗されてすべての著書が発禁処分にされるなど艱難のなかに生涯を閉じた。
彼が興した朱子学は、アジア諸国に影響を与えたが、近年では儒教を先鋭化し過ぎたのがタマに傷と評価されがちであり、小説家の司馬遼太郎も「滅亡しかけていた南栄の政治環境が生んだイデオロギーな部分がある」という主旨の感想を言っている。
江戸時代の儒学者伊藤仁斎らは、朱子学の肝の一つである「人は生まれながらにして身分の差がある(だから偉い人には従え)」といった教義に疑問を呈し、「禅や老子からの引用や、論語の拡大解釈が圧倒的に多くて、本来の儒学と別物だよね?」という主旨の批判をしている。
備考
この朱子学は、南宋以来の中華王朝はもとより、日本や朝鮮半島、世界レベルで影響を与えてきたものだが、キリスト教がそうであったように、決して良い影響ばかりではなく異民族の迫害や自国民の夜郎自大化を助長するなど悪影響も与えてきたことは多くの研究家が認める事実であり、それゆえデリケートな部分も含まれるのもまた事実である。
元々は、この概念が歴史に与えたある程度のあらましがやや崩した文体で記してあったが、現在は「差別だ」「こんなの嘘だ!」という一方的な主観のみで削除されている。感情論へ訴えての白紙化・削除は全く建設的でなく、批判点や間違っている箇所を具体的にまとめて記事を修正しななければただの荒らしにしかならないので注意されたし。