概要
長坂釣閑斎は、甲斐武田家の重臣であり、小笠原家の庶流の長坂家の嫡男として1513年に生まれる。幼名は不明だが、元服後は光堅(みつかた)と名乗ったらしい。
しかし、資料に名前が出てくるのは晴信(武田信玄)が武田家の家督を継いだ1541年以降である。資料自体が少ないのではっきりとした活躍は不明だが、高い行政能力持ち、晴信からの信頼を勝ち取ったようで、1548年に上田原の戦いで武田家譜代の重臣板垣信方が討死すると、彼の務めていた諏訪郡代の役職を齢36歳の若さで命じられている。
1550年代前半は、どこの城主かは不明だが、諸角虎定や真田幸隆らと北信濃で村上氏についた豪族や国人の調略を担当していたらしい。1559年に晴信が出家し「信玄」と名乗ると、光堅も出家し「釣閑斎」と名乗る。
1560年代は、詳しい活動は不明だが、釣閑斎と思われる人物が武田家において、内政を担当していた。また、川中島の合戦や箕輪城攻めと言った合戦に出陣していたらしい。