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伏見城の編集履歴

2020-06-22 21:23:47 バージョン

伏見城

ふしみじょう

京都市伏見区桃山町周辺にあった日本の城。

概要

巨椋池を擁する大坂京都の間、伏見に築かれた城である。

1591年に聚楽第を甥の豊臣秀次に譲った秀吉隠居用の屋敷とそて築かれたものであった。

1593年にはとの交渉等を控え、日本の国力を示すために本格的な城として改修されることとなった。

これを指月伏見城と呼ぶ。

大規模な土木工事や街道の整備が行われ、大坂城聚楽第に勝るとも劣らない城となった。

1594年には廃城となった聚楽第や淀城の部材も運び込まれ城下町も整備された。


伏見城の構築は、単なる隠居や明使節の改憲だけではなく、大阪と京を、巨椋池(現在は干拓され消滅)通じて伏見を中継点とし、巨大な政治経済の流通を把握するための新たな拠点として企画されたものであった。この構想は淀城構築の時に行われたが、その改良版として伏見城と「太閤堤」と呼ばれる巨椋池沿岸堤防の構築で実現した。


伏見城は淀川対岸に出城として小規模ながら三層の天守を備えた向嶋城も構築され(太閤晩年は徳川家康が居住)、戦略的にも厳重な設計が行われた。


しかし、1596年、慶長伏見地震が発生し大規模な損害を被る。

その後、伏見城の避難場所とされた木幡山をそのまま第二の伏見城とした。

これを木幡山伏見城と呼ぶ。

木幡山伏見城には旧伏見城の部材が再利用され、かなりの短期間で完成にこぎつけている。


関ヶ原の戦いの際には島津軍の猛攻撃を受け落城、ほとんどの建築物を焼失することになる。


江戸時代には家康によって再建。

家康は江戸城より伏見城にいることのほうが多かったともされている。しかし駿府城の完成と共に使用されなくなり、1619年に廃城となった。

淀城を新たに築城することとなったため、部材の多くは淀城に再利用された。


構造

指月伏見城

指月伏見城の構造は不明だが、櫻井重廣の研究により現在の城地とは異なる、丘陵の麓を利用した構造と推測され、2010年代の発掘長さにより石垣の遺構が発見されている。

城の設計は千利休が行い、「利休好み」の城となった。天守は耐震構造の「なまず大事」にて作事され、最上層には月見のからくりと呼ばれる展望装置があったと伝承される。

しかし完成直後、秀吉以下が入城した時に慶長地震が発生、指月伏見城は崩壊し多数の侍女が圧死した。

なおこの時、唐入りでの意見対立で蟄居中であった加藤清正が秀吉を救出し、許されたとの伝承があるが、史実では加藤清正は秀吉の安否を伝聞で確認したとの記録があり、虚構と判断される。


木幡山伏見城(1期)

慶長地震の後、秀吉は伏見を見下ろす高地、木幡山に築城を命じ、短期間で完成させた。

本丸を中心に登城の導線を複雑かつ巧妙に工夫した縄張りで、また淀川から主郭付近に舟入を取り入れた構造で、大坂城、郡山城、名護屋城に共通した実践的な構造を持つ。

建築物は金瓦で装飾され、「黄金の輝きで魚が住まなくなった」と言われる程の豪華さを誇った。

その結構は多数の洛中洛外図屏風に描かれたが、当時の洛中洛外図屏風は大量生産のため建築物の典型化が図られたため、実像を反映していない可能性が高い。


関ケ原の前哨戦により建築類は大部分が焼失したため詳細は不明。


木幡山伏見城(2期)

関ケ原合戦後、徳川家康は京都支配のため洛中に二条城 (現在の二条城の二の丸部分)、洛外に再築伏見城を建築した。再建伏見城は作事(建築物)を新造したものと想定される。


現在

明治時代に宮内省の御料地とされ、明治天皇桃山陵、昭憲皇太后桃山東陵となったため城跡の大半は立入りが出来ない。1964年、花畑曲輪跡にに模擬天守が建てられたが現在は耐震基準を満たしていないことから内部非公開となっている。

遺構からは何重もの地層が発見されており、地震等による災害後、何度も盛り土が繰り返されてきたことを証明している。


関連タグ

京都 聚楽第 桃山時代

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