概要
山城国(現在の京都府南部)にあった城。室町時代に築かれたが安土桃山時代に廃城となり、その後江戸時代に場所を変えて築かれた城も淀城と呼ばれる。
本稿では、安土桃山時代まで存在したものを「淀古城」、江戸時代に築かれたものを「淀城」と呼称する。
淀古城
15世紀頃の築城と推測され、現在の伏見区納所北城堀にあった。
当時この地域は(現在は消滅した)巨椋池の北岸で、大坂と京を結ぶ水陸交通の要衝であった。また、海産物や塩などが陸揚げされる「与渡津」があり、商業地として栄えていた。
応仁の乱以降 、激戦地として何度も戦を経験した城でもあった。城主も細川氏、三好氏、織田氏、豊臣氏と移り変わっている。
足利義昭が挙兵した際、三好三人衆の一人岩成友通が呼応し、淀古城に立て籠るも、細川藤孝らに攻められ落城、岩成友通は戦死した。
豊臣氏の支配になってからは、秀吉が側室茶々の産所としたため、茶々は後世「淀殿」「淀君」と呼ばれることになった。
文禄元年(1592年)から秀吉の隠居所として伏見城(指月城)の普請が始まり、淀古城からも天守や櫓が移築された。
文禄4年(1595年)に廃城となった。この頃、城主は豊臣秀次の家老である木村重茲であったが、謀反の嫌疑のあった秀次を擁護し、連座の責として切腹を命じられたためである。
建築物は聚楽第や伏見城(慶長大地震で崩壊した指月城)に移築された。
その痕跡は江戸時代を通じて残り、昭和初期の陸軍による測量では城址の概要が推定できる程度に残っていた。
淀城
概要
上記の淀古城の廃城後、江戸時代に築かれたもので、現在の伏見区淀本町にあった。淀古城のあった場所より約500メートル南方の、桂川・宇治川・木津川の三川の合流部にあたる。
沿革
元和5年(1619年)に伏見城の廃城が決まり、伏見藩に代わり京都を防備する城を築くよう、二代将軍秀忠が松平定綱に命じ、元和9年(1623年)に着工、寛永2年(1625年)に竣工した。建築にあたっては伏見城の多くの建物が移築された。
松平定綱が初代城主として3万5000石で入城、淀藩が立藩した。
その後永井尚政ら数人の交代を経て、享保年間に稲葉正知が10万2000石で入り、以後廃藩置県まで稲葉氏が淀藩の藩主となる。
鳥羽・伏見の戦いにおいては戦場になり、劣勢となった幕府軍が淀城へ入城をはかるも、藩主稲葉正邦は老中として江戸におり、留守居の淀藩には新政府軍と戦う意思はなく、入城を拒絶した。
幕末には幕府軍が官軍に対抗するための拠点としようとしたが、淀藩から断られる。
が、その後真っ先に淀藩は官軍に寝返っており、本末転倒な結果となった。
鳥羽伏見の戦いにおいて淀藩は将軍の受け入れを事前に打診されたが、最終的に入場するか否かの連絡がないまま入城を要請されたため、淀藩は入場を拒否した(という説もある)。
現在は大半が京都競馬場と市街地に埋没し、鉄道駅周辺の天守台周辺と内堀の一部のみ現存している。
構造
門や塀の設置にはオランダ人によりヨーロッパ式の建築技術が採用された。
西側と北側に大型水車が設置され水を取り込んでいたとされる。
「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」とうたわれ、元禄5年(1692年)にはオランダ人医師ケンペルが「淀の町は美しく、水車小屋がその一部になっている」と書き残しているなど、水車が淀城のシンボルとなっていた。
天守は伏見城(秀吉の木幡山伏見城が関ケ原の合戦の前哨戦で焼失した後、家康が新築したもの)を、伏見城を廃城とした後、淀城に移築する予定であったが、二条城を天皇行幸のため拡張し、新造本丸に伏見城天守を移築する事になったため、淀城には旧二条城天守(これも豊臣秀長の大和郡山城天守を移築したもの)を急遽移築することとなった。
その際、天守の平面面積が大幅に減り、完成済の淀城天守台の四方に空き地が出来てしまった。そこで姫路城から二層の櫓を四基移築し四隅に張り出して立て、各々を多門櫓で連結した。
その結果、全国でも類例の少ない連立天守(天守台上であれば駿府城、郭としては津山城天守)となった。
登場作品
イラストレーター:沙マコ
CV:西野陽子
平/水/槌
(裏)淀城
CV:西野陽子
平/地獄/弓
CV:高田憂希
個別記事を参照→淀城(城姫クエスト)