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二宮忠八の編集履歴

2020-09-25 19:27:52 バージョン

二宮忠八

にのみやちゅうはち

二宮忠八とは、近代日本における航空機研究者の一人である。

概要

愛媛県八幡浜市矢野町(後に八幡浜町と合併した神山町にも「矢野町」があるためややこしいが、こちらの矢野町は市内八幡神社の近く)出身。

慶応2年6月9日(1866年7月20日)生、1936年(昭和11年4月8日没。


メイン画像の「玉虫型飛行器」を設計、ライト兄弟より先に飛行原理を解明した人物。

陸軍従軍中の1889年に「飛行器」(忠八自身の命名)を考案。その翌年には、ゴム動力による模型飛行器を製作。軍用として「飛行器」の実用化へ繋げる申請を陸軍へ三度行なうも理解されず、以後は独自に人間が乗れる実機の開発を目指したが、完成には至らなかった。

メイン画像は忠八が見たかった景色そのものなのである。


生い立ちについて

苦労

実は、アンサイクロペディア「八幡浜市」の「出身有名人」項目に書かれてあることが、そこまで間違いではなかったりする。色街狂いの兄二人に家財を潰されて苦労したのは事実。また、様々なを自ら作って売り、収入の足しにしたとか。

その後は上記の通り、陸軍生活で飛行器を着想するも、実現の目途が立たぬままに退役となり、製薬会社に入社して資金を自前で稼ぐことに。しかしその後、ライト兄弟の有人動力飛行の成功を新聞にて知るに至り、飛行機の研究から離れる。

評価されはしたが……

その後大正時代に入ると、航空事故の多発に心を痛めた忠八は、事故犠牲者の慰霊が飛行機開発に携わった者としての責任と感じ、私財を投じて犠牲者の霊を祀る神社、飛行神社1915年(大正4年)に創建する。

その4年後、同じ愛媛出身の陸軍中将、白川義則氏と懇談した際、かつて軍内で飛行機の提案をしたが却下されたことを告げると、その白川氏による確認を通じ、技術的な正しさが軍部にも初めて正しく伝わった。それを機に表彰を数々受け、没後には教科書に掲載されるまでになる。

ただ、やはり「もし評価がもっと早ければ」と考えずにはいられない。


外部リンク

八幡浜市サイトによる忠八の紹介

飛行神社公式サイト

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