※まず初めに、この百貨店の崩壊事故で犠牲になった方々に心よりお悔み申し上げる。
※記事タイトルでは漢字表記になっているが、本文ではカタカナ表記とした。
概要
サムプン百貨店は、ソウル五輪景気真っ只中の1989年12月に開業した高級百貨店。
・・・だが、それから6年足らずの1995年6月29日、地上5階・地下4階、A棟とB棟で構成される建物のうち、売り場の多くが集中するA棟が突如、跡形もなく崩壊し、死傷者1445人、うち死者が502(508人とする説もある)人という韓国史上最悪の惨事となった。キム・ヨンサム大統領(当時)ですら思わず「竣工してから6年足らずで崩壊する建物がこの世にあるか」と吐き捨てた。
外観は高級感を出すためかピンクでまとめられ、中央部にガラスドームを配置した瀟洒な建物だったが、その中身は欠陥建築の烙印を押されるほどずさんな構造、「見てくればかりのポンコツ」になっていた・・・。
3度の魔改造
実はこの建物は地上・地下とも4階建てのオフィスビルとなる予定で着工した。しかし経営母体のサムプン建設産業サイドが間もなく、「地上にもう1層建て増ししてデパートにする」方針に転換。これが最初の設計変更となるが、下請け会社に設計変更を要求したところ、「建設途中で設計変更するのは危険だ」と拒まれたことにサムプン建設会長イ・ジュンが激怒。下請け会社を更迭し、サムプン建設が直接施工した。
だが、この最初の設計変更で行われたのは、
- 「売り場に防火シャッターを設置するため」だけに柱の一部を撤去
- エスカレーターを設置して吹き抜け構造にする際に、その周囲の柱を補強するどころか、見た目を重視するあまり、逆に細め、鉄筋も減らす
という、日本では決してありえない改悪だった。
建て増しした5階はローラースケート場になるはずが、不正にレストラン街に設計変更され、この形で完成した。これが2度目の設計変更だが、レストラン街は「床に座って食べる」という韓国特有の風習に従い、オンドル(韓国伝統の床暖房)を入れる必要があったため、その分コンクリートの量が増した。
また崩壊事故前年の1994年には、監督機関であるソチョ区役所に無断で地下1階に売り場を増設するなどの工事を行う。この3度目の設計変更で、ソチョ区役所から「違法建築」と認定された。
そればかりか、現地はもともとゴミ処分場を埋め立てた場所だったこともあり地盤が軟弱だった。
このような軟弱地盤においては、より強固な柱と相応の鉄筋の挿入、さらに梁を用いることによる剛性確保が求められている。
にも拘らず、サムプン百貨店の場合、建設の際使われたコンクリートは「砂・砂利」:「セメント」の配合比率が基準を満たさない、質の悪いもので、また挿入すべき鉄筋の量も少なかった(鉄筋の代わりに石油缶を詰めていた場所すらあった)。さらに梁を使わず過重制限があるフラットスラブ構造で建造したことが、ただでさえ負荷がかかる大型建築の負荷をさらに重くした。
開業後3年ほどは何とか持ちこたえていたサムプン百貨店だったが、1993年に屋上の冷房装置(の室外機)をローラーに載せて牽引する形で移動させた際、柱の基部にぶつかったことでその柱の強度が低下、冷房装置を起動させるたびにその柱に振動が伝わって、建物全体にダメージを与えていった。
経営陣が避難指示を出さず、自分たちが真っ先に逃げた!!
とどめを刺したのは崩壊当日の経営陣の判断。
事故前日、5階の天井にひび割れが見つかり、当日朝にはこれが拡大したばかりか、足許にも陥没が発生。また壁にも当然のごとく亀裂が発生し、この際、鉄筋が入っていなかった壁があったことが発覚する。
経営陣にこれらの報告が入ったのは昼で、この時点で幹部の一人が、建物内部にいる客・従業員全員に避難指示を出し、建物全体を封鎖すべきと進言した。
ところがイ・ジュンと、その息子で百貨店社長のイ・ハンサンの返答は・・・。
「閉店時間までもう少しだ! それまで利益を取れ! 利益を取れば持ち堪える事が出来る!」
「ここがじきに崩れる事を、客に露見しないようにな。お前達、露見したらただでは済まないぞ」
営業継続を命じたばかりか、部下にかん口令を敷いた。
経営陣は真っ先に逃げ、部下がこの命令を背かず、残された客・従業員達が大惨事に巻き込まれた。
ここで命令に背いて、独断で避難指示を出していれば・・・。
17時57分。
A棟は非常階段がある両端を除き、跡形もなく崩壊。
崩落により屋上から落下した室外機や給水タンク、またコンクリート片の直撃などで絶命した人も多く、中には、首のない状態で見つかった遺体もあったという。
しかし、より死者を増やしてしまったのは、崩壊直後に地下2~3階の駐車場から火災が発生して出た有毒ガス。この影響により救助隊員が近づけず、本来であれば救えるはずの生命が失われた。
他方で、事故発生から17日後に、どうあがいても絶望とさえ言われる状況下から救助され、かつ生存が確認された人もいる。※
※通常、災害や大規模な事故が発生してから72時間=3日間を経過すると生存率が大幅に低下すると言われている。
事故は上記のように人災としての側面が強いのだが、イ・ジュンは事件後のインタビューで、悪びれる様子さえ見せずに、こう言い放った。
「三豊百貨店が崩れる事は客にも被害はあるが、私達の会社の財産が無くなるぞ!」
そして事故の数日後、ジュン、ハンサンのイ親子達経営陣と、3度の設計変更を承認した見返りにサムプン側からわいろを受け取っていたソチョ区長らが逮捕される。
経営陣は実刑判決を受け投獄された。
崩壊事故から20年、しかし・・・
その後、崩落をまぬかれたB棟には閉鎖措置されて1999年に撤去。更地になったのち、現在はアクロビスタという高級マンションが立てられている。
その近所にサムプン百貨店崩壊事故の慰霊碑も建てられているが、20年を経てこの事故は風化が進んで事故の教訓が生かされないうちにセウォル号沈没事故も発生。
韓国大手企業特有の「安全性より利益第一」という企業風土のもと、「長く安心して使う事が出来る建物を造るより、とにかく早く造れ」という思想が長年問題かつ危険になっている他、当時の韓国では、公共事業に最低価格の条件がなく、現場ではダンピングやわいろが横行し、下請け業者が資材の切り詰めなどを強いられて安全対策が疎かになりやすい状況下にある。だが、これらの改善は遅く進まないのが現状。
- ちなみに日本は地震国でもある為、耐震強度に少しでも不備があると建築認可が下りない。しかし、阪神淡路大震災で倒れるなどした建物の多数棟で建築基準を満たしていなかった事が判明するなどの類似ケースはあった。
- 前述のイ・ジュンは服役中に病に侵され、刑の執行が停止されて間もなく2003年に死亡した。