柿崎景家
かきざきかげいえ
概要
上杉二十五将の一人であり、上杉四天王の一角にも挙げられる勇将。
柿崎・猿毛両城の城主であり、初めは越後守護代の長尾為景に仕えた。為景が死ぬと嫡男の晴景に仕え、晴景の統治に対する不満から四男景虎との家督争いが発生すると、景虎を支持した。
景虎のもとでは重用され、本拠春日山城の留守居役も任されている。関東の北条攻めや宿敵武田との戦いなどに従軍。特に武田との第4回川中島の戦いでは先鋒として武田信玄の本陣に攻め入り、武田軍本隊を一時壊滅寸前に追い込んだ。
内政面でも斎藤朝信と共に奉行として功績を残し、外交面でも北条氏康との同盟成立に尽力し、我が子晴家を人質として北条家に送っている。
1574年11月22日に死去。この時嫡男祐家は戦による深手を負っていたため、次男晴家が後を継いだ。
その最期は、織田信長への内通を疑われて謙信に謀殺されたという俗説が有名(この場合の没年は1577年)。しかし、これは後に上杉家でおきた家督争い『御館の乱』で、子の晴家が支持した上杉景虎ではなく上杉景勝が勝利したため、後に景家・晴家父子を貶める資料が残った結果である。実際景家の死因は病死であり、柿崎家自体もその後存続した。
評価
勇将揃いの上杉家臣団の中でも随一の戦上手であり、常に先鋒を務め、敵はその名を聞いただけで怖じ気づいたという。謙信は彼を『越後国内で敵うものはいない』と評した。
このように謙信からの信任厚く活躍した武将であったが、その最期に関する俗説のせいでいまいち良い評価を受けていない。更にこの俗説に加え、ドラマ化した人気小説『天と地と』において、武勇は抜群だが思慮が浅く裏切りやすい人物として描かれたことや、『信長の野望』シリーズで脳筋にされたことが拍車をかけたと思われる。
実際の景家は一度も謙信を裏切ってはいないし、頭を使う活躍もしている。同じ四天王の宇佐美定満とは逆の意味で正しい実像が伝わっていない武将の一人である。
謙信時代の上杉家を知る上で重要な資料である『諸国衆御太刀之次第写』にも『柿崎和泉殿』として名が載っている。序列は十四位。