はじめに
編集合戦にならないよう、歴史資料に基づいた編集を行ってくださいますようお願い致します。
経緯
1923年(大正12年)9月1日11時58分、相模湾の北西部を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震「関東大地震」によって発生した地震被害。「関東大地震」は相模トラフ巨大地震の一つ。
「関東大地震」の震源域は相模トラフ沿いの西側とされ、三浦半島の延長線方向の相模トラフの走行に平行する右横ずれの低角逆断層とされる。地震調査委員会は発生要因をフィリピン海プレートの沈み込みによって生じたプレート境界での北米プレートの跳ね返りとしている。当時は震度7の階級は設定されておらず、被害状況から、小田原など相模湾岸および房総半島南部で震度7相当に達したと推定されている。
地震により関東各県で家屋の倒壊が発生、また発生時刻が昼前だったこともあり火災による焼失も相次いだ。湘南地区・三浦半島・房総半島では、家屋の倒壊率が高かった。
また、M8程度の海溝型巨大地震であったため、約10m程度の津波が沿岸部を襲った。特に静岡県の熱海で12m・房総半島の相浜では9.3mの津波を観測し、熱海では地震発生後約5分で津波が到達したとされている。他にも太平洋沿岸でも津波が到達した。
死者・行方不明者は推定10万5,000人とされており、明治時代以降では最悪の被害(日本の震災の中でも最大の死者数)である。
影響
- 加藤友三郎の逝去に伴う第二次山本権兵衛内閣組閣がたまたまその直後となった。首相不在の間は内田康哉が臨時首相として、震災の救援物資の緊急調達を意図した非常徴発令(勅令第396号)、震災事務を司る臨時震災救護事務局官制(勅令第397号)、戒厳令(勅令第398号)を発令している。
- 第一次世界大戦の好景気の反動により不景気となりかけていたが、この震災によりさらに不景気となり、影響は昭和の金融恐慌まで続いた。
- 石造やレンガによる建築が地震に弱いことが広く知れ渡り、その後はほとんど建築されなくなった。建築基準に耐震性が加えられた。
- 当時はラジオ放送は実用化前で、電話も一般家庭に普及していなかった。報道関係は電報と新聞に頼ることになるが、東京にあった新聞各社も機材の破損や焼失により報道機能は一時麻痺している。
- 報道機能の麻痺により、政府や軍などの当局の発表を情報源とするしかなかった。それ以外では噂を情報源とせざるを得ず、その中で(混乱に乗じて)朝鮮人による凶悪犯罪・暴動などのデマが広まった。市民による自警団や軍隊が朝鮮人や中国人、日本の社会主義者らを殺傷する事件も発生している。
- 印刷局および倉庫も同様に被災。切手(一部の原版)および収入印紙等の印紙類(原版のほとんど)の印刷が不可能となり、急遽民間印刷所に切手などを製造させることになった。
- 本震の地殻変動により、三浦半島や房総半島が1~2mほど隆起した。これにより千葉県の沖ノ島などいくつかの島が陸続きになっている。
- 戦後の1960年、「台風、高潮、津波、地震等の災害についての認識を深める」という目的で「防災の日」を制定。日付は関東大地震の9月1日に設定された。