データ
性別 | 牝 |
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生まれ | 1874年3月17日 |
血統 | 父:カンバスカン/母:ウォーターニンフ/母父:コッツウォルド |
概要
ハンガリーの競走馬である。名の由来はハンガリー語で「私の宝物」という意味。デビューから引退までの無敗記録としては世界記録となる54戦54勝の記録を持つ、世界最強の競走馬だ。
2歳の1876年6月、ベルリンの第1クリテリウムを果たし、このレースに勝利すると、その闘志を乗せるかの如く快進撃を開始した。続けてドイツでフェアグレイヒス賞、クリテリウム、エリネルンクスレネン、ルイーザレネン、ツークンフツレネンの各レースを全勝利した後、オーストリア・ハンガリー帝国に戻りショプロンのボルガルデューユ、ブダペストのケーテヴェシェックヴェルシェニエ、続いてウィーンのクラッドルーバー賞、プラハのクラッドルーバークリテリウムにそれぞれ勝利した。この結果10戦10勝という驚異的な戦績を凄まじき意味で残した。
3歳になったキンチェムは、5ヶ月の休みを挟みブラチスラヴァのトライアルステークスで復帰。これに勝利すると、ブダペストのネムゼティ賞、ハザフィ賞といったハンガリーのクラシックに相当するレースを連勝した。特にハザフィ賞は母子制覇であった。さらに、中央ヨーロッパの強豪馬たちが出走するレースだったジョッケクルブ賞を大差勝ちとなった。この後、ウィーンのトライアルステークスとカイザー賞に連勝してドイツに渡り、初の古馬とのレースとなったハノーファー大賞、続いてレナードレネン、バーデン大賞、ヴェルトヒェン賞に勝利。地元ハンガリーに帰ってショプロンのアラームディーユを2連勝した後、ブダペストのハンガリーセントレジャーに楽勝した。さらにカンツァディーユも勝った。この後、彼女はウィーンのフロインデナウアー賞に単走で勝利、続いてプラハのカイザー賞を連勝し3歳のシーズンを終えた。この時17戦17勝という、話にならない程の戦績を残した。
4歳になっても快進撃は止まらなかった。この年はまずウィーンのエレフヌンクスレネンとプラーター公園賞に勝利し、続けてブラチスラヴァのアラームディーユ、ブダペストのアラームディーユ、キシュベル賞、アラームディーユ、再びウィーンに行ってシュタット賞、トライアルステークス、シュタット賞と、オーストリア・ハンガリー帝国で4月から5月にかけての約1ヶ月の間に9連勝をした。そして彼女はこの後、西ヨーロッパ遠征を敢行する。西ヨーロッパ遠征の初戦はイギリスのグッドウッドカップだった。イギリスでも有名であり、ヨハネス・ブラームスのハンガリー舞曲にちなんで「ハンガリーの奇跡」と呼ばれていた。なお、ダービー馬・シルヴィオやオークス馬・プラシダとのマッチレースも企画されそうになったが実現しなかった。グッドウッドカップは、ハンプトンやアスコットゴールドカップを勝ったヴェルヌイユを初めイギリスの有力馬たちは、ハンガリー馬に負けるのを恐れ回避してしまっていたため、わずか3頭でレースが行なわれた。彼女の他にはこの後ドンカスターカップを勝つことになるページェントなどが出走していた。そしてレースはそのページェントが逃げ、彼女は控える展開になったが、最後の最後に2馬身差で勝利する。続いてフランスのドーヴィル大賞典にも、出走した。1番人気こそプールデッセデプーラン(フランス2000ギニー)を勝っていた地元フランスのフォンテヌブローだったものの、結局勝利となった。
ドーヴィル大賞典に勝利した後、バーデン大賞に出走するためドイツのバーデンバーデンに遠征した。彼女は、自分が馴染んだものしか口にしなかったことから彼女の遠征時には、いつもタピオセントマルトン牧場の水も持って行かれたが、バーデンバーデンで、突然その水を飲まなくなってしまった。その後、数日たっても水を飲まないでいたが、ある井戸を見つけると、その井戸に止まって水を飲んだ。この出来事をきっかけとして、その井戸が「キンチェムの井戸」と呼ばれるようになった。
バーデン大賞では、騎手のマイクル・マデンが極端に後ろからの位置取りをしてしまい、プリンスジルスと同着だった。彼はこの時酒に酔ったまま騎乗したといわれている。この後プリンスジルスとの決勝戦が行われたが、突然馬場に野良犬が乱入して、終始彼女に絡み、その隙に相手のプリンスジルスが彼女を突き放していった。しかし彼女は犬を蹴飛ばして追い払い、プリンスジルスとの差を縮めて追いつくとあっという間に交わして6馬身差で楽勝した。遠征を終えた後、オーストリア・ハンガリー帝国に戻り、ショプロンのアラームディーユとブダペストのリターディーユに勝利、さらに同じくブダペストのカンツァディーユを連覇して1878年を終えた。4歳時は15戦15勝だった。
古馬となった5歳時も現役を続けた彼女は、この年も12戦で全て完勝した。ブラチスラヴァのアラームディーユで5歳初戦に勝利すると、続けてブダペストで1879年5月4日から5月8日の5日間でカロイー伯爵ステークスとアラームディーユ2レースの計3レースに出走し3連勝、特にアラームディーユでは斤量が76.5kgだったにもかかわらず勝った。この後ウィーンでシュタット賞を連勝。さらにドイツに渡り、シルバナーシルトとエーレン賞に勝利し、さらにバーデン大賞に勝ち同レースの3連覇を果たす。ドイツから帰国した後、前年と同様にショプロンのアラームディーユ、ブダペストのリターディーユとカンツァディーユに勝利した。なお、カンツァディーユは3連覇であった。このレースの後、同厩舎の馬との喧嘩により脚を怪我したため、この年を最後に、彼女は54戦54勝で引退し、種牡馬入りした。
繁殖牝馬として5頭の産駒を残した。どの馬も競走馬または繁殖で活躍し、彼女の子孫は多く繁栄した。特に、1974年には、13代目の子孫ポリガミーが英オークスに勝った。また、ポリガミーの全妹のワンオーバーパーの玄孫でキンチェムから数えて17代目の子孫であるキャメロットは、2012年に2000ギニーとダービーステークスを制して英国クラシック2冠馬となるなど、21世紀となった現在でも、世界各地にキンチェムの子孫が残り活躍を見せている。
1887年3月17日、13歳の誕生日に疝痛により死亡した。この日ハンガリーの教会はキンチェムを追悼するために鐘を鳴らし続けたという。彼女の骨格はハンガリーの農業博物館に展示されている。そして生誕100周年の1974年にはこの馬を記念してブダペスト競馬場が「キンチェム競馬場」と改名された。