概要
藤原利仁流の斎藤則盛の子(一説には斎藤実直とも)
武蔵国幡羅郡長井庄を本拠地としたため、長井別当とよばれる。
生涯
関東地方は、相模国を本拠地とする源義朝とそれに対抗し武蔵国に本拠地を置いた源義賢に分かれていた。実盛は当初源義朝に仕えていたが、地政学的な理由から義賢に仕えた。しかしこうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の長男源義平は1155年義賢を急襲しこれを討ち取る。実盛は義朝の麾下の戻るが義賢の旧恩も忘れず遺児・駒王丸を信濃国の中原兼遠に届ける。これが後の旭将軍・木曾義仲である。
保元・平治の乱では義朝の部下として奮戦し義朝が滅亡したあとは平家に仕え重用された。1180年平維盛が源頼朝を征伐するとき維盛の後見となった。関東武士の勇猛さを語ったところ維盛以下味方の武将が恐怖心を持ち、水鳥の音を夜襲と勘違いし敗走した。
1183年維盛と共に木曽義仲追討のため出陣するが、加賀国篠原の戦いで敗れ手塚光盛に討ち取られる。この戦いの際実盛はここを最期の地と決め最期は若々しく戦いたいという事から白髪を黒く染めた。
その為首実検の際は最初は実盛本人と分からなかったがこれを樋口兼光からきいた義仲は首を洗ったところ実盛と確認された。命の恩人を討ち取ってしまった義仲は人目に憚らず涙を流した。
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松尾芭蕉・・・実盛の甲を見て句を読んだ