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八甲田雪中行軍遭難事件

はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん

八甲田雪中行軍遭難事件とは、1902年1月に日本で発生した大規模な遭難事件である。

概要

1902年(明治35年)1月23日に日本陸軍の歩兵連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件である。

遭難した青森歩兵第5連隊(青森連隊)の訓練参加者の総勢は210名だったが、その内199名が凍死するという近代の登山史における世界最大級の遭難事故となった。

この事件は冬季の自然の脅威の他に、遭難した連隊の知識不足・準備不足・過信・判断ミスが事態を悪化させた要因となっている。

経緯

事件前

日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で、冬季寒冷地での戦闘で苦戦を強いられた経験から、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦に向けた準備をしていた。

冬季訓練は、遭難した青森歩兵第5連隊の他に弘前歩兵第31連隊(弘前連隊)が偶然にも同時期に八甲田山で雪中行軍を計画(出発日は1月20日)していた(両部隊は互いに雪中行軍を予定していたことはほとんど知らなかった)。

弘前歩兵第31連隊は弘前市から出発し十和田湖方面から回って八甲田山の三本木、田代新湯を行軍し、その後は青森市、浪岡を経て帰還する(総延長約224km)という約二週間掛けての雪中行軍を計画。

一方の青森連隊は青森市から田代新湯を往復(片道約20km)する約一日の行軍を計画した。

弘前連隊は、雪中行軍に関する研究を行っており、3年もかけて研究してきたことの総決算の意味合いも含めて入念に準備をしていた。指揮官の陸軍大尉・福島泰蔵は一ヶ月前に雪中行軍を通知し、志願者の37名と従軍記者1名の少数で編成。経路沿いの村落や町役場に書簡で食糧・寝具・案内人の調達を依頼し、村民・マタギ・木こり等から情報収集し、防寒や凍傷予防が万全な兵装を身に纏い、行軍中は麻縄で隊員同士を1列に結ぶ等、研究の成果を実践していた。

青森連隊は、行軍計画の立案者である陸軍大尉・神成文吉が実施の5日前に予行演習を行い、屯営から小峠間の道程(片道9km)を中隊規模で行軍。好天に恵まれていたこともあり行軍は成功する。これを受けて大隊長で陸軍少佐・山口鋠は青森~田代間を1日で踏破可能と判断し、23日に出発することを定めた。

210名の大隊規模で編成するが、道中で休息する予定が入っていない強行軍同然の計画であり、食糧は1日分しか携帯せず、兵装も極寒に適した物ではなかった。だが、予行演習での成功で過信していたこともあり、軍医の凍傷に関する忠告を受けていたが、まともに聞き入れなかった(皮肉にも青森連隊には青森出身者が少なく、厳寒期の青森の山岳の知識が皆無だったことも一因)。

一日目 - 出発 ~ 天候悪化

青森連隊は早朝から青森駐屯地を出発し、道中の田茂木野で地元民が行軍の中止を進言し、もしどうしても行くならと案内役を申し出るが、これを断って八甲田山を行軍した。

しかし、小峠を過ぎると天候が急変し、暴風雪の兆しがあらわれたことから将校達は進退を協議し帰営を検討したが、下士官達からの反対もあって進軍を決定する。

しかし、悪天候と深雪などで行軍は難航し、大峠から馬立場まで進んだが、食糧・燃料を積んだソリ隊が本隊から大幅に遅れてしまい、2個小隊が応援に向かわせ、その間に設営隊を斥候を兼ねて先遣隊として先行させた。結局、馬立場から鳴沢へ向かう途中でソリを放棄し積み荷は各員が分担して持つこととなった。また、設営隊は田代方面の進路を発見できず、道に迷っていたが運よく本隊と合流した。

その後、日没と猛吹雪により田代方面への進路も発見できなくなったため、やむなく平沢の森で最初の露営をおこなった。しかし、一つの壕(広さ6畳程)に40人が狭く収まり、敷き藁すらないため座ることが出来なかった。さらに食糧不足な上に暖や食事のために火を起こそうにも中々着火出来ず、積雪で地面まで掘れず不安定な雪の上で釜を設置せざる得ない等、炊事作業が難航した。

二日目 - 遭難

連隊から寒気を訴える者が続出し、事態を重く見た山口少佐ら将校達は帰営を決定し、予定を早めて真夜中に駐屯地に向けて出発する。連隊は空腹と睡眠不足のまま馬立場を目指すが、鳴沢付近で峡谷に迷い込んでしまい、露営地に引き返すこととなったが、この時道案内を申し出た特務曹長が道を誤って駒込川の本流に出てしまったことで完全に遭難する。猛吹雪の中、安全な場所を探して彷徨っていたが、次第に空腹と疲労困憊で落伍者が出始め統制も乱れてきていた。

鳴沢付近にて窪地を発見して第二の露営地とするが、雪濠を掘る道具を持つ者達が全員落伍して作れない上に、食糧が凍結して食べれず、絶食と不眠不休の行軍で凍死者が続出する(後にこの露営地が最も多くの凍死者を出すこととなる)。

一方、青森駐屯地ではいつまで経っても戻って来ない連隊を心配し、川和田少尉率いる40名程が田茂木野へ向かうが、事態をそこまで重く捉えず弘前連隊へ転出する将校の送別会を催して悠長に待っていた。

三日目 - 解散

連隊は夜明けを待って出発して馬立場を目指したが、完全に道を見失ってしまい、将校達は協議の末「ここで部隊を解散する。各兵は自ら進路を見出して青森または田代へ進行するように」と解散命令を出した。神成大尉も「天は我らを見捨てた」と吐いた。

なお、この解散命令は本当にあったのかは不明で、生還者の中に解散したことを否定する者がいた。

この解散命令によって最後まで付いて来た隊員達の多くがタガが外れることとなり、矛盾脱衣を初めて服を脱ぎ始める者、川に飛び込む者、筏を作ると言って銃剣で木を切ろうとする者など、発狂し始めた。さらに凍傷で手が利かず服が脱げずに尿を垂れ流しにしたことで、そこからの凍結が原因で凍死する者も続出した。

その後は各自バラバラになって行動することとなり、帰営を目指す隊や田代新湯を目指す隊などに分かれた。この時にはすでに半数以上が凍死・行方不明となっている。

その頃、田茂木野で待っていた青森駐屯地の部隊はその日も帰営しない連隊に疑問を感じ、三本木方面に向かったのでは思って三本木警察に電報を打ったが確認がとれず、事態を重く見て翌日救援隊を派遣することを決定した。

四日目 - 救援隊の捜索

神成大尉はわずか30名ほどの隊員達とともに田茂木野へ目指していた。この中に山口少佐も含まれていたが、意識障害を起こして背負われていた。

その頃、青森駐屯地では60名の救援隊が屯営を出発した。途中村民を案内人として雇い大峠まで捜索活動を行ったが、案内人の調達に手間取り出発が遅れたことに加えて天候も厳しくなってきたことで、捜索を打ち切って田茂木野へ引き返した。

五日目 - 発見

生き残っている隊は協議の末ふた手に分かれることとしなり、青森に向かって左手の田茂木野を目指す神成大尉一行数名と、右手の駒込澤沿いに進行し青森を目指す倉石大尉の一行約20名(山口少佐も含む)が分かれた。

神成隊は、目標に対し比較的正しい方角へ進んでいたものの、猛吹雪をまともに受けたため落伍者が続出し、ついに神成大尉も倒れ、唯一生き残っていた後藤房之助伍長に「田茂木野に行って住民を雇い、連隊への連絡を依頼せよ」と命令した。後藤伍長は朦朧とした意識の中、危急を知らせるために、単身田茂木野へ向かった。

その頃、救援隊は捜索活動を再開し、小隊が大滝平付近に進んだところに雪中に佇む後藤伍長を発見。

後藤伍長の証言で、青森連隊の遭難が判明した。神成大尉らの遺体も発見されたが、救援隊にも凍傷者が出始めたことで目印を立てて遺体の回収は断念(七日目に収容)。その後、救援隊から本部に連隊の全滅の可能性が伝えられた。

六 ~ 十一日目 - 救出 ~ 捜索終了

別行動した倉石隊も次々と落伍者を出していた。この頃、八甲田山を逆方向から行軍してきた弘前連隊が遭難者を見たとする説がある(弘前連隊はそのまま青森に辿り着いている)。

九日目に倉石大尉も発見して救出している。この頃には弘前連隊は弘前駐屯地に帰営している。

そして、十一日に最後の生存者を発見し、捜索は終了となる。

この遭難事件で神成大尉ら199名が凍死する最悪な事態となり、倉石大尉ら11名が生還するが、そのほとんどが凍傷で手足の切断を余儀なくされる。また、山口少佐ら6名は救出されたがまもなく亡くなっている。

事件後

前代未聞の陸軍による大規模な遭難事故は、民間人の軍部への批判をかわすことを目的に、真実が隠されたり歪曲されていた。

また、生還者達に当時の状況の聞き取りを行っていたが、極寒の寒さや空腹と不眠不休の行軍によって記憶が曖昧で矛盾や食い違いなどが発生していた(上記の解散命令の有無や日時の差異等)。

その後の遺体収容作業は難航を極めており、遺体が凍り過ぎて関節の部分からばらばらに砕けるため慎重に扱わざる得なかった。最終的に5月28日(約四ヶ月)に最後の遺体を収容した。

小説化・映像化

天ハ…天ハ我々ヲ見放シタ……!!

この事件を元に、新田次郎が1971年に「八甲田山死の彷徨」という小説を発表した。そしてこの小説を原作とした映像作品が2作作られた。

ひとつは映画「八甲田山」であり、1977年に東宝系の映画館で公開された。出演は高倉健北大路欣也緒形拳加山雄三三國連太郎ほか。

もう一つはテレビドラマ「八甲田山」であり、1978年4月4日から5月9日にかけて、TBS系列全23局(当時)に加えフジテレビ系列局約1局にて放送された。

出演は原保美、村野武範、中山仁目黒祐樹、高橋幸治ほか。

一方、小笠原孤酒という、青森県在住であった在家の研究家によるドキュメンタリー小説「八甲田連峰吹雪の惨劇」が存在しており、これを基にしたイタリア映画「Mount Hakkoda」が存在する。なお、新田次郎は、「八甲田山死の彷徨」を執筆するにあたり、小笠原孤酒の協力を得てはいる。

関連タグ

遭難 八甲田山

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