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誠仁親王の編集履歴

2022-02-19 09:50:04 バージョン

誠仁親王

さねひとしんのう

誠仁親王とは安土桃山時代の皇族。後陽成天皇の父。

概要

正親町天皇の第一皇子、諡号は陽光院


プロフィール

続柄正親町天皇の第一皇子
称号陽光院
出生天文21年4月23日(1552年5月16日
死去天正14年7月24日(1586年9月7日
配偶者新上東門院勧修寺晴子(女房)、典侍局
子女後陽成天皇八条宮智仁親王
父親正親町天皇
母親万里小路房子

経歴

1552年に正親町天皇と万里小路房子皇后の長男として誕生。

資金難によって新王宣下(皇族の元服)が執り行えずに居たが、永禄11年(1568年)に上洛を果たした織田信長の献金と支援によって実現した。天正12年(1584年)に三品を叙位、天正5年(1577年)に信長から譲渡された二条城を御所とした。


ところが、天正10年(1582年)に本能寺の変が発生し、明智光秀の謀反により最大のパトロンだった信長が横死。さらには、妙覚寺から逃れて来た織田信忠が二条御所に逃げ込み立て籠もったため、明智軍に襲撃され、誠仁親王は妻子や臣下の公家らと共に捕らえられてしまう。

完全な信長の協力者だったことから「自身も無事では済むまい」と悟った誠仁親王だったが、織田方の交渉と皇族やその縁者を手にかけるリスクを嫌った光秀によって、徒歩という条件付きながらも離脱を許され、歩いて禁裏まで逃れて事無きを得た。


その後、信長の跡を継いで天下取りを成し遂げた豊臣秀吉の支援を受け、秀吉が主催した茶の湯に父正親町天皇と共に参加するなどした。実質的な次期天皇として期待されたが、天正14年(1586年)に35歳という若さで薨去した。その後は皇子の和仁親王が即位し、後陽成天皇となり父誠仁親王に陽光院の諡号を贈られた。


外部リンク

誠仁親王 - Wikipedia


関連項目

皇族 後陽成天皇 正親町天皇 陽光院 織田信長 豊臣秀吉

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