松井須磨子
まついすまこ
概要
1886年(明治19年)3月8日生まれ。長野県出身。本名は小林正子(こばやしまさこ)。
士族の四男五女の末っ子として生まれる。(数え年で)6歳の時の某家の養女となる。男の子と喧嘩して傷が残るほどの負けん気の強い少女であった。尋常小学校を卒業した時に養父が亡くなったために実家に戻るが、その年に実父が亡くなってしまう。そのため東京に嫁いだ姉を頼って上京する。
1903年に親戚の世話で最初の結婚をするが、1年で離婚(理由は諸説あり)。この時俳優養成学校に願書を出して面接も受けるが、顔の第一印象が「平坦で華やかさがない」と入学を拒否されたために当時としては最先端の技術だった美容整形手術を受けてやっと合格した。このため彼女は「日本初の整形女優」と称されることもあるが、後年はその後遺症に苦しむことになる。
1908年(明治41年)に再婚し、その翌年に坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生になるが、その反動で家事がおろそかになってしまい、1910年(明治43年)に離婚する。
負けず嫌いの彼女は早朝から踊りの練習に通い、夜は寝る間も惜しんで台詞の稽古に励んだ。その熱意はシェイクスピアの原書に振り仮名を入れて丸暗記するほどだった。
その努力の甲斐あって1911年(明治44年)24歳の時に『ハムレット』のヒロイン・オフィーリアに抜擢されて松井須磨子としての初舞台を踏んだ。
同じ年の11月に『人形の家』のヒロイン・ノラを熱演して大ヒット。雑誌『青踏』はノラ特集号を出し、「ノラになる」が流行語になった。
この時の舞台の演出は島村抱月。逍遥の愛弟子であり、海外帰りの新進気鋭の演出家だった彼は「西洋で学んだ演劇を日本でも!」という信念で須磨子を新時代の女優にするために厳しく指導した。
この演劇に関してロンドンに留学して欧州の演劇を多数見ていた夏目漱石は「須磨子とかいう女のノラは主人公であるが顔がはなはだ洋服と釣り合わない。もう一人出てくる女もお白粉をめちゃ塗りしている上に目鼻立ちがまるで洋服にはうつらない。ノラの仕草は芝居としてはどうだか知らんが、あの思い入れやジェスチャーや表情はしいて一種の刺激を観客に塗り付けようとするのでいやなところがたくさんあった」(日記)と酷評している。
続いての『故郷』も大当たりし、須磨子は一躍人気スターになっていったが、その陰で須磨子は妻子がいる抱月と道ならぬ恋に落ちていた。抱月の妻に頼まれた逍遥が2人を無理矢理引き離そうとするが、逆に火に油を注ぐ結果となってしまった。
1913年(大正2年)。抱月はかねてから演劇方針で対立していた師・逍遥と袂を分かち、芸術座を結成。須磨子27歳、抱月42歳の時だった。この恋愛スキャンダルが新聞を賑わせ、旗揚げ公演では好奇心に駆られた観客で大入りになった。
翌年の第3回の公演に選んだ『復活』で須磨子が歌った『カチューシャの唄』は、レコードを2万枚以上を売り上げる大ヒットになったことから、須磨子は「歌う女優」となった。
しかしこの間に劇団内部では須磨子と他の団員との確執が表面化し、多くの団員の脱退が相次いだ。
1918年(大正7年)11月5日に抱月がスペイン風邪で急死すると、その2カ月後の1919年(大正8年)1月5日に東京市牛込区横寺町(現:東京都新宿区横寺町)にあった芸術倶楽部の道具部屋で「私はやっぱり先生の拠へ行きます」という遺書を残して首吊り自殺をした。享年32歳(満年齢)。
遺書にはさらに先生(抱月)と一緒に埋葬してほしいと書かれていたが、抱月の家族(特に妻)の反対でそれは叶わず、彼女は長野県松代町清野の小林家墓所(生家の裏山)に葬られ、新宿区弁天町の多聞院には分骨墓がある。翌年、須磨子を哀れんだ阪井久良伎らによって多聞院の分骨墓のそばに「抱月・須磨子・芸術比翼塚」が建てられた。
そのあまりにもの波乱に満ちた生涯故に、自分から人生に幕を下ろしてしまった年には早くも「恋の津満子」というタイトルで映画化された。
その後1947年8月には松竹京都撮影所の手による「女優須磨子の恋」が、更に同年12月には東宝による「女優」が、それぞれ公開され、一人の人物を取り上げた映画が半年以内に相次いで公開されるという、異例の展開となった事がある。
また、1988年4月から6月にかけてTBS系列局(+日本テレビ系列局のごく一部)にて、「殉愛」というタイトルでテレビドラマ化されている。