慶応3年(西暦1867年)12月に王政復古を宣言した維新政府は、諸大名の結束を固める必要に迫られた。
そこで、福井藩出身の参与由利公正が「諸侯盟約」の草案を起草し、これをさらに土佐藩出身の参与福岡孝弟が公議政体を強調したものに修正した。
これに対して、公卿などから、諸侯の会盟は外国のやり方であって、神武天皇御創業の古に復するという新政府の方針に合わないという異論が出された。
そこで、総裁局顧問の木戸孝允は、天皇が群衆を率いて国是を神明に誓う、という方式を建議した。
その結果、明治元年3月14日、明治天皇は、京都御所の紫宸殿に神座を設け、公家・武家の諸臣を率いて、「五箇条の御誓文」を奉じられたのである。
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
二、上下心を一にして、盛んに経綸を行ふべし。
三、官武一途庶民に至る迄、各々其志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す。
四、旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。
五、知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
このように明快な五箇条の国是(国家の方針)は、戊辰戦争という緊迫した状況の中で公表された。
これは幕末の政治過程を通じて確立されつつあった「天皇を中心とした公議政治」の原則が結晶したものであり、その後の日本の基本方針となった。