概要
1559年11月11日(永禄2年10月12日) - 1636年2月16日(寛永13年1月10日)
戦国大名・織田信長の長女として誕生。
永禄6年(1563年)3月、信長が家康に徳姫を嫁入りさせる約束をしたことで、永禄10年(1567年)5月27日、三河国の徳川家康の嫡男・松平信康に嫁ぐ。天正4年(1576年)に登久姫、天正5年(1577年)に熊姫を生んだ。しかし、いつまでも嫡子が生まれぬのを心配した姑の築山殿が、信康に元武田氏家臣の浅原昌時の娘や日向時昌の娘など、部屋子をしていた女性を側室に迎えさせたため、この頃から築山殿と徳姫が不和になったといわれている。
また、信康とも不仲になったともいわれており、これを示す史料として、松平家忠の『家忠日記』の中に、家康が信康・徳姫の不仲を仲裁するために岡崎へやって来たというエピソードが記されている(ただし、原著のこの部分は信康の喧嘩相手の名詞が破損しており、松平康忠と信康が仲違いしたとの説を提唱している研究者もいる。)その頃、信長も岡崎に来たことも記されており、信長も娘夫婦の仲を心配してやって来た可能性も推測できる。一時的にせよ夫婦仲がこじれたことがあったことは事実であるといえよう。
天正七年(1579年)に徳姫は父の信長に、築山殿と信康の罪状(武田との密通など)を訴える十二ヶ条の訴状を書き送り、この訴状を読んだ信長は、安土城に滞在していた家康の使者である酒井忠次を通して信康の殺害を命じたとされる。これにより築山殿は8月29日に小藪村で殺害され、信康は9月15日に二俣城で切腹した。
その後、徳姫は天正8年(1580年)の2月20日に家康に見送られて岡崎城を出立し安土へ送り帰され、2人の娘達は家康の元に残していった。その後近江八幡市あたりに居住しており、天正10年(1582年)に起きた本能寺の変において父・長兄ともに死去すると、次兄・織田信雄に保護されたが、小牧・長久手の戦い後に信雄と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の講和に際して人質として京都に居を構えた(『顕如上人貝塚御座所日記』)。ところが、天正18年(1590年)に信雄が秀吉によって改易されたため、生駒氏の尾張国小折に移り住んだ。これは「埴原家文書」に残された秀吉の朱印状から秀吉による処置だったことが明らかで、その後すぐにまた京都に居住するなど、徳姫の処遇は秀吉の支配下にあったことが推測できる。
関ヶ原の戦い後は、尾張国の清洲城主となった家康の四男の松平忠吉から1761石の所領を与えられた。その後は京都に隠棲した。寛永7年(1630年)、蜂須賀忠英と正室・繁姫(共に小笠原秀政の孫で徳姫の曾孫)の間に嫡子・千松丸(蜂須賀光隆)が誕生した際には、乳母の選定について相談されている。
寛永13年(1636年)正月10日に死去(『小笠原忠真年譜』・『源流綜貫』)